「怒られる……?」
   フェルディナント様とハインリヒ様は、今にも泣きそうな顔で私を見上げる。
   大丈夫――と言って差し上げたいが、よりにもよってこのランプか――。
   ちょうどその時、使用人が着替えと掃除道具を持って現れた。彼女はこの惨状を見て、唖然とした。無理も無い。彼女に促して、まずは二人を着替えさせることにした。

   旦那様がこの惨状を見たら――。
   怒る――だろう。このランプは一番大切になさっていたものだ。ランプを磨いている姿を見かけることも何度かあった。そういう時に側に行くと、ランプの話を一時間は聞かされることになる。

   まずい。
   かなりまずい。

「……何をなさっていたら、ランプが壊れたのですか?」
「ロイとね、追いかけっこして遊んでいたらあの台にぶつかって……。そうしたらランプが落ちてきて……」
   そう言えば――、先程も廊下で遊んでいる二人を見かけた。フェルディナント様の具合が今日は宜しいのだな――と思っていたのだが。
「もうすぐ旦那様がお帰りになります。その時に……」
   旦那様のお帰りです――と使用人の声が聞こえる。二人の顔が一気に強張る。きっと私も顔を引きつらせただろう。

   そして不運なことに今日は、奥様とミクラス夫人が不在だった。奥様の故郷であるハンブルクへと所用があって、昨日から出掛けていた。こんな時に奥様がいらっしゃれば、まず奥様に話をして旦那様に口添えを頼めるものだが――。
「フェルディナント様、ハインリヒ様。私も一緒に旦那様の許に参りますので、きちんと謝りましょう」
   二人は項垂れる。怒られることが解っているから、二人共が大きな眼を潤ませていた。まず私は旦那様の迎えに向かった。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。子供達は?」
   奥様が不在だから、御子様達のことを気に掛けていたようだった。どう切り出そうか、旦那様の様子を見てからと思っていたが、こうなると先に話さざるを得ない。
「旦那様。お話が御座います。あの……、気を落ち着けてお聞き下さい」
「どうした? フェルディナントが具合を悪くしたのか?」
「いいえ、その……。リビングルームに置いてあった旦那様のお気に入りのランプのことですが……」

   ランプが割れたことを伝えると、旦那様は次の言葉が出ない様子で立ち止まった。何故割れたのだ――と問い返されたのは、数十秒後のことだった。
「申し訳御座いません。私もお二人が遊んでいるところを見ていたのですが、注意に至らず……。ランプを置いてあった台に身体があたり、ランプが落ちてしまったとのことです」
   旦那様はすぐにリビングルームへと向かった。扉を開け、砕けたランプを瞬きひとつせず見つめる。
「父上……」
   フェルディナント様とハインリヒ様が揃って旦那様の許に歩み寄る。涙ぐんだ声で、ごめんなさい、と頭を下げて謝る。
「……怪我は?ガラスに触れなかったか」
   旦那様は静かな口調で二人に向かって言った。二人とも頷いて、旦那様を見上げる。
「着替え……、ああ、もう着替えさせたのか。……フェルディナント、ハインリヒ、何故こうなったのか話してみなさい」
   フェルディナント様が私に話したのと同じことを旦那様に語る。部屋の中で走り回っては駄目だ、と旦那様は言った。
「はい……。ごめんなさい……」
「反省したら、二人とも部屋に行っていなさい。この部屋を片付けなければならないから、それまで此処に来ては駄目だぞ」
   二人はもう一度返事をして、部屋を後にする。


   意外にも――、ランプを壊したことを怒らなかった。使用人が掃除道具を持って、歩み寄る。旦那様はガラスの破片を掃き出そうするのを見て、待ってくれと制した。
「手袋を持って来てくれ。私がやる」
「危のう御座います。すぐに片付けますので……」
「いや、破片を集めておきたいんだ。オスカーに頼んで修復して貰うことにする。……まあ見事に砕けたものだが……」
「申し訳御座いません。注意を怠りました」
「いや……、あの年頃の子供だ。家の中のものを壊すのは仕方が無い。……それに形あるものはいつか壊れるとも言う」
「旦那様……」
「残念だが、このランプの運命ということだろう。まあ、元通りにはならんだろうが、多少の修復は可能だ」
   旦那様は屈んで、ランプを見つめた。追いかけっこか、と苦笑を漏らす。
「旦那様?」
「フェルディナントの体調が良かったのだろう。あの年頃の男の子が二人揃えば、走り回るのは当然だ。寒いから庭に出てはならないとも言ってあったからな」
   仕方が無い――。
   そう呟いて、旦那様は静かにランプの欠片を拾い始める。お気を付けて下さい――そう言いながら、私もそれを手伝う。大小の破片をひとつひとつ袋にいれていく。旦那様は軍服を着替える前に、それを行った。

   美術品を好む旦那様のこと、もっと御子様方を怒るかと思ったが、意外にもランプを壊したことについては怒らなかった。まるでただコップや花瓶を壊したかのような対応で、淡々としていた。

   その晩のことだった。旦那様はまだ寝室に入っていらっしゃらなかったので、お休みになるよう部屋に行った時、部屋のなかから声が聞こえて来た。


「ああ、多少傷は残っても構わない。元のランプの形は写真に撮って残してある。破片は出来る限り拾ったから……。ああ、そうだな、結構派手に壊れた。二人はフリッツがすぐに着替えさせてくれたようだ。何処にも当たっていないと言っていたから、大丈夫だろう。……いや、叱ってはいない。心臓が止まるかと思ったほど、驚かされたがな」
   どうやら電話中らしい。電話の相手は奥様のようだった。
「貴重なランプだっただけに惜しいがな。まあ、元気の良い証拠だ。フェルディナントも珍しく走り回っていたという。……ああ、体調のことなら大丈夫だ。二人揃って悄げていたが、明日には開き直っているだろう。……ではユリア、済まないがオスカーに頼んでみて貰えるか。時間はかかっても構わないと」
   私は旦那様の部屋の前をそっと離れた。電話が終わればお休み下さるだろう。ランプのことはやはりショックだったに違いない。
「ゆっくり羽を伸ばしておいで。故郷に帰ったのも久々だろう」
   奥様を気遣う旦那様の言葉が小さくなって聞こえて来る。相変わらず、仲の良い御夫婦だった。

   だが――、旦那様の教育方針が少し解ったような気がした。


[2010.2.20]