2.教育方針〜執事フリッツ所見



   旦那様は気難しい、厳しい方だとフェルディナント様やハインリヒ様は言う。確かに厳しい一面はあるが、理由無く叱りつけることはない。分け隔て無く公正な方で、使用人達にも慕われている。

   私は父親の後を継いで、このロートリンゲン家に仕えている。大学を卒業した直後――、22歳の時にロートリンゲン家に入ったから、もう19年になる。
   元々、執事という父の職業を継ぐつもりはなかった。何処かの会社に就職しようと考えていた。しかし、父は私に後を継いでほしかったようで、何度となくこのロートリンゲン家に連れて来られ、旦那様や奥様の前で挨拶をさせられた。旦那様の前で失礼のないように――それが私の父の口癖だった。
   その父が、私が22歳の時――あれは暑い日のことだった――仕事に行って来るといつも通り出掛けようとした矢先、玄関先で倒れた。すぐに病院に向かったが、脳溢血でそのまま帰らぬ人となった。

『もし君が良ければ、執事となってくれないか』
   旦那様からそう頼まれたのは、父が亡くなって2週間が経った時のことだった。私はまだ就職も決まっていなかった。かといって、父の仕事がどれだけ大変かということは良く知っていた。随分悩んだが、結局父の職業を継ぐことにした。

   ロートリンゲン家は帝国でも有数の名家だった。名家という意味では、5本の指に入る。財力だけ見れば、1、2位を争うだろう。そのロートリンゲン家に仕えるのは、実は名誉なことでもあった。
   後から聞いた話だが、父が亡くなった直後に十数人が執事となりたいと名乗りを挙げて、ロートリンゲン家にやって来たのだという。なかには執事としてなかなかの経歴を持った者もいたらしい。給金が高いということもあるだろうが、そればかりではなかった。他の使用人達の間に陰険な確執も無く、旦那様がたも暖かい。働くための環境としてはこの上ない――当時から管財人を勤めていたパトリックは私にそう言った。

   その頃の私はまだその理由が解らないままだった。旦那様の機嫌を損ねないように気を配りながら、仕事に追われる毎日だった。気遣いが至らなくて、旦那様から叱られたこともある。今となれば、そうして叱ってくれたからこそ、今の私があるのだと思える。

   旦那様と奥様の仲は非常に良かった。仲睦まじい御夫婦だった。一方、御子様がたには非常に厳しい。特に長男のフェルディナント様には厳しくて、きつい言葉を浴びせる様を何度となく見かけたことがある。それに少し反感を覚えることもあった。フェルディナント様のお身体が弱いから、虐げているのだろうか――そう考えたこともある。
   パトリックにそれを尋ねると、確かに御子様達に厳しいがそれは違う――と笑って言った。旦那様は少々誤解されやすい節もあるから、じっくり観察してみると良い――パトリックは私にそう言った。

   それが何となく解ったのが、私がロートリンゲン家に勤め始めて一年目のことだった。同時に、パトリック達が「この上ない環境」だと言っていた意味も解った。確かにこのロートリンゲン家は使用人が働くにしても、御子様達が育つにしても、良い環境だった。





   ガチャン。
   大きな音がリビングルームから聞こえて来た。もうすぐ旦那様の御帰宅の時間だ、と時計を確認しながら歩いていたところだった。今の音は何か大きなものが割れたような音だったが――。
   窓は防犯用のガラスを使用しているから、そうそうに割れるものではない。では今の音は何を割った音なのか。あの部屋には旦那様のお気に入りの大きなランプがあるが――。
   まさか――。

   リビングルームに行くと、フェルディナント様とハインリヒ様がはっと顔を上げて此方を見た。床に屈んだ二人の足下には、ガラスの破片が散乱していた。
「触ってはいけません! お二人ともすぐに離れて!」
   二人共が立ち上がる。ばらばらとガラスの細かな破片が舞い落ちる。その様子から察するに、どうやらガラスを全身に浴びたらしい。怪我は無いか、まず確かめた。
「御怪我は? 何処か痛いところは?」
「大丈夫。僕もロイも当たってないから……」
   二人の身体を払う。ガラスの破片が身体に付着しているかもしれない。膝から下にかけて少し破片が付着していたが、腰から上の部分には何の破片もついていなかった。
「今、服を用意します。そのまま動かないでお待ち下さいね」
   部屋の片隅にある電話台に行き、使用人の控え室に連絡を入れる。二人の着替えをリビングルームに持って来るように、そしてすぐに掃除道具を持って来てくれと告げて、電話を切る。
「フリッツ……。どうしよう……。父上のランプ……」
「え……?」
   フェルディナント様が不安そうに床を見つめる。割れたガラスの正体に私が気付いたのはその時だった。瞬間、言葉を失った。

   旦那様のお気に入りのランプ――、それが無残にも割れていた。
『この技巧は彼にしか出来ない技巧でな。彼が亡き今、このランプは世に二つと無いものだ』
   旦那様の言葉が頭のなかをぐるぐると回る。このリビングルームにはいくつかの美術品が置いてあるが、そのなかでも一番お気に入りのものだった。それを知っているだけに、愕然とした。


[2010.2.19]