「ああ、違うよ。こういう時はこの公式を使って……」
   数学を教えてほしいとロイが部屋に駆け込んできたのは、昨日のことだった。その時は熱が出てベッドに横になっていたところだったから、ミクラス夫人がロイを止めた。急ぐことならとロイに言ったら、ロイはそうじゃないと言う。では具合が良くなったら――と約束したので、熱が下がった今日、ロイの勉強を見ることにした。ロイが学校から帰宅してから、部屋に行くと、ロイは机に向かって問題集に取り組んでいた。
「この公式ってそういう時に使うんだ。知らなかった……」
   ロイは頷きながら、問題を解いていく。学校の宿題かと思ったら、そうではないらしい。いつもは宿題しか取り組まないロイが珍しいことだった。来月の受験に焦りを感じたのだろうか。
「……ルディ、首席だっただろ」
   問題を解き終わったところで、ロイは私を見てそう言った。
「ルディの成績表を見た後に俺の成績表を見たら、父上が怒り狂いそうだ……」
「私は偶々運が良かっただけだよ」
「実力だろう、あれは。ルディ、テストは殆ど満点だったじゃないか……。満点なんてそうそう取れるものじゃないよ」
「そう難しいテストじゃなかっただけだ」
「母上から聞いたけど、2位との差が数十点も開いてたって。俺、今回の成績は本当に怒られそう……」
   まるで昨日の自分を見ているようだった。落第したかもしれないと心配で不安になって、一日中落ち着かなかった。
「私も不安だったけど、落第はしなかったし、大丈夫だよ、ロイ」
「ルディの心配こそ無用の心配だったんだよ! ……俺は今日絶対に、父上に絞られる……」
「私も今晩、父上の部屋に呼ばれているよ。叱られそうだ」
「あんな良い点で叱られる訳ないじゃないか」
「成績のことじゃなくて、また寝込んだことをね。それも自分一人があたふたして熱を出したんだから、仕方無いけど……」
「母上から聞いたよ。落第じゃないって解って安心して熱を出したって。あの点数で不安になることなんて無いのに」
「欠席が多かったからね。体育なんて半分も参加してなかったし……」
   それでも落第はありえないだろう、とロイは言って、自分のノートを見て、溜息を吐いた。

「ロイ?」
「……今回の数学の成績、絶対に悪いんだ……」
「何故そう思うんだ? テスト、そんなに悪い点数じゃなかったんだろう?」
   ロイは俯く。ロイのテストの点数は8割を切ったことがなかった筈だ。父が士官学校の幼年コースを受験するのだから、8割を切ってはならないとは言っていたが――。
「……ルディ、怒らない?」
「え?」
「一枚だけ8割を切ったんだ。……8割どころか、7割も無くて……」
   ロイは机の引き出しを引っ張り出して、その奥から小さく折り畳んだ紙を取り出した。それを私に手渡す。
   開いてみると、68点と書かれた答案だった。ロイの落胆の原因はこれか――。
「ずっと隠していたのか?」
「こんな点数言えないよ……」
「けれど隠していた方が父上は怒ると思うぞ」
「……でも……」
   ロイは項垂れる。8割を切っては駄目だと、父はずっと言っていたから、この点数を見たら確かに怒るだろう。
「この点数があるから、今回は10位以内なんて絶対に無理だよ……」
「他のテストは8割以上あるのだろう?」
「それはあるけど……。ルディ、俺、士官学校にも高校にも行けないかもしれない」
「え? 何故?」
   いつもは元気なロイがしょんぼりと俯いて、今にも泣きそうな顔で呟く。士官学校に行きたくないと言うのかと思ったら、今の言葉から察するにそういう意味ではないようだった。
「ルディの高校に入るには上位5位以内にいないと駄目だって……。5位以内なんて無理だし、士官学校も10位以内じゃないと……」
「今迄10位以内に入っていたのだから大丈夫だろう。それに肝心なのは来月の試験なのだし……。数学もこれから頑張れば……」
「士官学校の受験があって、それからルディの高校の受験があるんだ。でも筆記試験で士官学校の受験に失敗するような人間が、ルディの高校に受かるわけが無い。その他の学校は父上が許してくれそうにないし……」
「そう心配せずに、とりあえず今は頑張ってみよう、ロイ。解らないところは私が出来る範囲で教えるから……。このテスト、きちんと見直してみたか?」
   ロイはこくりと頷いて、計算ミスをしなければあと2点はあったんだ、と言った。
   確かにその通りだった。その他の問題も、もう一度解き直してみたらしい。そうしたら全部解けたんだとロイは言った。
「だったら心配することは無いよ。きちんと落ち着いて解けば解けるってことだ」
   ひとつ糸口を教えてやれば、ロイはすぐにそれを飲み込む。すぐに解ってもらえるから、私も教えやすい。士官学校の幼年コースは、毎年数人しか合格出来ない狭き門だと聞いているが、ロイは体力も抜群だから、おそらく問題無いだろう。あとは自信をつけてやれば良い。
「ルディ。受験まで勉強見てくれる……?」
「ああ、勿論」


   その晩、私が父の部屋に行って勉強に関しては何も言うことは無いから、体調管理をしろと説教を受けた後、ロイが父の部屋に行った。数学はロイが予想していた通り、少し評価が下がったようだった。この時期に成績が下がったことを父は叱ったらしい。そのうえで、何故数学の成績が落ちたのかと理由を問われ、ロイはついにテストのことを父に伝えたとのことだった。
   私が思っていた通り、父はテストを隠していたことに対して酷く怒ったようだった。
   それでもロイは総合順位で10位だったらしい。数学は悪かったが、語学でその点数分を取り返したようだった。

   しかし、この日以来、ロイは受験に危機感を抱いたらしく、学校が終わるとすぐ家に帰ってきて、私の許にやって来た。士官学校の過去の試験問題を解いたり、苦手な数学の問題を解いたりしながら、一方で父から武術の手解きも受けていた。
   そうしたことが功を奏したのだろう。ロイは見事、士官学校の幼年コースに合格した。受験者総数5682人中、合格者8名。ロイはそのなかでも全科目9割以上の点数を獲得して、首席合格を果たした。
   ロイはその後、私の通っている高校も受験して、此方も合格した。士官学校ではなく私と同じ高校に通いたいと父にせがんだが、父がそれを許す筈も無かった。

   ロイが合格したことで、少しは私もこの家に貢献出来たかな――母にそう尋ねてみると、母は勿論よ、と優しく笑んでくれた。
   私はそのことが何よりも嬉しかった。

【End】


[2010.2.17]