父は厳しい人だった。
   母に叱られることは滅多に無かったが、父には始終叱られていた。なかでもこっぴどく叱られるのが決まり事や約束事を破った時だった。

   その日、学校が終わってから、俺は友達と遊んでいた。その週は教員と保護者との面談があったから、いつもより早く授業は終わり、家に帰ったらすぐに遊びに出掛けた。6時までには帰る、と母に伝えておいた。
   6時までには帰るつもりだった。
   ところが、遊びに興じるうちに時間を忘れてしまい、気付いた時には陽が暮れかけていた。慌てて公園にあった時計を見ると、もう6時になっていた。友達と別れて、急いで家に帰った。
   そういえばルディは今日初めて成績表を貰うんだった――と走りながら思い出していた。ルディのことだから、良い成績に違いない。テストは殆どが満点だった。
   満点なんてどうやったら取れるのかとルディに聞いたこともある。ルディはとくに誇るでもなく、きちんと授業を聞いていれば取れるよ――と答えた。はっきり言って、兄弟でも頭の出来が違うのだと思う。

「ただいま!」
   そんなことを考えるうちに家に到着した。6時を15分過ぎていた。母上に謝って父上には内緒にしておいてもらおう――俺はそう考えていた。
「お帰りなさいませ、ハインリヒ様」
   フリッツが出迎えてくれる。ただいま、と告げると、フリッツは俺にそっと言った。

「旦那様が御帰宅なさっています。すぐに謝りに行ってらしてください」

   この瞬間、俺の背に寒気が走った。まさかこんな早い時間に父が帰ってくるとは思わなかった。
   父の部屋に行きたくはなかったが、すぐに向かった。その途中で母と出くわした。母はお父様がお呼びよ――とフリッツと同じことを俺に告げた。ああやっぱり叱られる――覚悟を決めてから父の部屋の扉を叩いた。返事を待ってから、部屋に入る。父は俺を見ると、静かな声で言った。
「外出時間は6時までという約束だったが、今は何時だ」
「6時……15分です……」
「ハインリヒ、お前は約束を守れないのか」
「ごめんなさい……。時計を見るのを忘れていて……」
「そんなことは理由にはならない。それはお前の注意力が足りないということだ」
   父の説教が始まる。そういう時はいつも父の座る机の前に姿勢を正して立って、じっと黙って聞いていた。そうしなければ余計に叱られる。
   いつもなら母が側に来て庇ってくれるが、いくら待っても母は居なかった。父の説教が続くなか、ひたすら母の助け船を待った。しかしその願いも空しく、母からの助け船が来ないまま30分が経過して、漸く父の説教が終わった。
「約束を破った罰として、これから一週間は外出を控えること。良いな?」
「一週間も!?」
   明日も遊ぼうと友達と約束したのに――。
「家の約束事を守れないのなら、この家から出て行きなさい」
   父のきつい一言に言葉を返せなくなる。いつもそうだった。俺もルディも父に逆らうことは出来ない。
「……ごめんなさい」
   素直に謝って、これから一週間遊びに行かないことを約束する。父は頷いてから話題を転じた。

「来月には受験もあるだろう。きちんと勉強はしているのか?」
   父はずるずると怒りを持ち越す性格ではない。漸く説教が終わった――と、ほっとしたのも束の間だった。
   勉強はしている――つもりだった。今日、遊びに出たのも久々だった。周囲も皆、受験一色に染まっているから、今日と明日だけは息抜きのつもりだった。
「士官学校の幼年コースは、お前が考えているほど甘いものではないぞ」
「……父上。どうしても士官学校に行かないと駄目? 俺はルディと同じ高校に入りたいんだ」
「お前はこのロートリンゲン家を継ぐ義務がある。何度もそう話した筈だぞ」
「解ってるけど……でも……。軍人じゃなくても……」
「旧領主家には二つの義務がある。この帝国を他国の侵略から守るという義務、そして経済面で支える義務。お前は恵まれた環境で育っている分、その環境を与えてくれた社会に恩返しをしなければならない」
   俺にはまだ理解出来ていなかった。何故、ロートリンゲン家を維持するために軍人とならなければならないのか。何故、自分の好きな道を選べないのか――。
「……ハインリヒ。やりたいことはお前の役目を終えてから存分にやりなさい」
「役目……?」
「軍人となり、結婚をして後継者を残す。その後継者が軍に入ったら、一応はロートリンゲン家の当主としての役目を全て果たしたことになる」
「……じゃあ、俺が軍に入ったら、父上は役目を終えることになるの?」
「ああ。お前が士官学校を卒業して軍に入ったら、私はすぐに退官して、自分の趣味に生きる」
「……いいな」
「私もこれまで我慢してきたのだ。お前とて役目を終えれば好きなことをして良い。お前の祖父も曾祖父もそうして家を残してきたのだからな」
   この家に生まれるとはそういうことだ――と父は言う。後継者が軍に入ったら、ということは俺にはまだまだ先の話だった。肩にどっしりとのし掛かる重責を考え、項垂れた時、父の机の上にあった成績表が視界に入った。

「……この成績表、ルディの?」
「うん?ああ。お前も明日、成績表を渡されるのだろう。楽しみにしているぞ」
   父の机の上にあるルディの成績表の評価を眼で追って、驚いた。
「……ルディの成績、何これ……!? 全部最高評価って……」
   唖然としてルディの成績表を見た。ずらりと最高評価を示す数値が並んでいる。その隣に分数のような表示があって、左側の数字が全て1となっていた。つまり、全教科1位だった。下の方に総合順位も書いてある。そちらも勿論、1位という数字が輝いていた。
   学年主席ということだろう。ルディは頭が良いことは解っていた。でもあのレベルの高い学校で首席だなんて――。
「……こんな成績の後で俺の成績なの……?」
   これまでルディは学校に通ったことがなくて成績表を貰ったこともなかったから、自分の成績と比較されることは無かった。俺自身、そう悪い成績は取っていない。これまでは。
「仕方あるまい。面談日はお前の方が後だったのだからな」
   よりにもよって――と頭を抱えたくなる。
   テストの結果は父に毎回報告することになっているが、一枚だけ父に言っていないものがある。これまでテストで8割の点数を切ったことは無かったが、その一枚だけ8割を切った。1点2点というのなら、それもまだ報告出来る。

   だが――、68点という点数では父には報告出来なかった。机の一番奥にそれを隠してある。
「……俺はルディのようには出来が良くないから期待しないでね……」
「お前も学年で10位以内には入っているのだろう。そうでなければ、士官学校の幼年コースの受験も厳しいぞ」
   今回はその68点という点数があるから、10位以内は無理に決まっている。どうしよう。今、点数を言ってしまった方が良いのだろうか。でもそうしたらまた説教が始まる――。
「それに言っておくが、フェルディナントと同じ高校に入ろうと思ったら、せめて学年で5位以内には入っていないと無理だぞ」
「……それは……レベルが高いのは解ってるけど……」
「解ったら、これから幼年コースへの受験に向けてきちんと勉強しなさい。筆記試験と体力試験、面接試験、これら3つの試験が全て合格点に達していなければならないのだからな」
   父の部屋を出る頃には、すっかり落ち込んでいた。出来の良い兄を持ったら苦労する。しかも出来の良いルディに期待をかけるなら兎も角、父の期待は俺に向いているから余計に苦労する。
   だがそれをルディに言うことも出来ない。ルディが士官学校を受験出来ないのは仕方の無いことで、ルディ自身、そのことに対して俺に済まないと思っているのだから――。

   ……でもせめて、俺に対しての兄の務めは果たしてもらおう。
「ルディ!」
   俺は一旦部屋に戻り、参考書とノートを手にすると、いつものように勢いよく、ルディの部屋へと駆け込んだ。


[2010.2.15]