「ルディは寝ていなかったの?」
   リビングルームに戻ってくると、ユリアが私に問い掛けてきた。
「眠っていたが、私の気配で起きてしまってな。少し話をした」
   テーブルの上にはフェルディナントの診断書がある。茶色い封筒に入れられたそれを取り出し、もう一度眼を通した。
「……出来れば仕事を辞めてほしいけど、ルディは辞めないでしょうね」
   ユリアが案じる気持も解る。フェルディナントの診断結果は、楽観視出来るものではなかった。今後も仕事の忙しさが続くようなら、フェルディナントの身体が耐えきれなくなる。
「ああ」
「……止めないのね」
「やりたいと言っていることを止めはせんよ。もう子供ではないのだからな」
「……貴方の言うことも尤もだと思うけれど、ルディの身体のことを考えると……」
   その時、コンコンと扉を叩く音が聞こえてきた。フリッツかと思ったら、フェルディナントだった。
「ルディ。起きて大丈夫なの?」
   寝間着に上着を羽織った姿で現れたフェルディナントは、大丈夫と応えて頷く。座るよう促すと、フェルディナントは私の前のソファに腰を下ろした。
「今、外務省に連絡して、ひと月の病気休暇を申請してきました」
「そうか……。ならばゆっくり休みなさい。くよくよ考えていても身体に良くないことだ。今は身体を治すことだけを考えなさい」
   フェルディナントは返事をしてから、まだ割り切れない様子で俯く。暫くそうしていたが、再び顔を上げると私を見た。
「私にしか出来ないことが必ずありますよね、父上……」
   不安げに問う。それに対して、頷き返した。
「ああ。同じ立ち位置に立てないのなら、特技を身につけることだ」
   そう応えると、フェルディナントは幾許かほっとした表情を見せる。ちょうどその時、フリッツがやって来て、ハインリヒが帰宅したことを告げた。ハインリヒは部屋に来るなり、ルディに体調を問い掛ける。ひと月、療養することを告げると、ハインリヒは驚いてフェルディナントを見、大丈夫か――と再度問い掛けた。フェルディナントは少しだけ笑みを浮かべて頷いた。



   フェルディナントは毎日投薬を受けながら、静かに過ごしていた。その甲斐あって、十日が過ぎる頃には顔色も良くなってきた。
   そんな頃、久々にラードルフが夫人と共にやって来た。
「フェルディナントが静養中?」
   何気なくそのことを話すと、ラードルフは大丈夫なのか――と深刻な表情をして尋ね返してきた。
「寝込んでいる訳ではないからな。日に一度投薬を受けて、それが終われば静かに過ごしている。もうじき此方に顔を出す筈だ」
「やはり、身体に負担がかかりすぎたのではないか……? 官吏は激務だからな」
「否定はせんが、それもフェルディナントが選んだことだ」
   ラードルフが何か言おうとした時、扉が叩かれた。フェルディナントが降りて来たのだろう。ユリアが応えると、フェルディナントは姿を現した。
「お久しぶりです。小父上、小母上」
   フェルディナントが挨拶をすると、ラードルフは大丈夫か――と問い掛ける。
「ええ。もう大分良くなりました」
   私達の側にある椅子にフェルディナントが腰を下ろすと、ラードルフはフェルディナントを見つめて言った。
「フェルディナント。敢えて厳しいことを言うが、勤務して半年で体調を崩すようでは、これからの職務に耐えられんぞ。雇用形態を変えてもらったほうが良いのではないか?」
   ラードルフ、と夫人が窘める。ラードルフはフェルディナントのことを考えればこそだ、と言い返した。
「官吏の仕事は激務だ。どの省もな。お前が仕事の出来ることは噂でも聞いている。だが、身体を壊してしまっては何もならんぞ」
「解っています、小父上。私が無理の出来ない身体だということは、皆と同じようには動けないことは、今回のことでよく解りました」
「フェルディナント……」
「だから自分に出来る範囲で勤めるつもりです」
   その口振りから察するに、どうやら自分自身で納得したようだった。ラードルフは念を押すように、無理をするのではないぞ――と言った。フェルディナントは微笑して頷く。


「弱い臓器を交換して治るものなら、治してやりたいものだな」
   フェルディナントが部屋に戻ると、ラードルフは扉を見遣りながらぽつりと言った。
   それは何度も思い悩んだことだった。フェルディナントの体質を治したいという一心で、治療法を探った時期もあった。だが、そのようなものは何処にもなかった。
「どうしようもないことだ。……それよりは、フェルディナントが現状を受け入れてくれれば良い」
「傍目で見ている私としてはどうしても諦めきれんよ。あれだけ元気そうで、才もあるのに……。フランツ、お前も諦めていない節はあるのだろう?」
「否定はしない」
   苦笑を返すと、ラードルフは愚問だったなと肩を竦めた。

   もしフェルディナントの身体が丈夫だったら――、先天的虚弱でなかったら――と、私はこれまでにも何度も仮定してきた。それこそ数え切れないほどに。おそらくはフェルディナント自身もそうだろう。やりきれない口惜しさを、過去にも今現在においても噛み締めているのだろう。
   だがこれを乗り越えていかなければならない。苛立ちばかり募らせても前には進むことは出来ない。
   フェルディナントも、そして、私自身も――。


[2011.4.25]