失意のなかの希望



「この案件は君に担当してもらいたい」
   三枚の書類を手渡される。大きな案件の担当を任せられるのはこれが三回目だった。外交官となって半年――仕事も覚えたし、どんな案件の処理でも楽しいと感じられるようになった。
「それから君の昇進を考えている。まだ若いが、早く国際会議に出てもらいたくてね」
   昇進――。
   国際会議での案件を担当出来る――。
「ありがとうございます。頑張ります」
「そのためにもこの案件を成功させてくれ。頼むぞ」
   机に戻り、早速資料集めから始める。資料室に行き、古いファイルを取ってきて、必要なものをコピーする。それを読み込んでいく。要点を纏めて、また次の資料を取りに行く。後で財務省の担当者とも話をしておく必要があるだろう。
   そうして仕事に取り組むうちに、終業時間となる。もう少し残って仕事をしようか――そう考えていたところへ、ロイがやって来た。
「まだ終わらないか?」
   ロイは既に今日の業務を終了したのだろう。手に鞄を持って、私の机に歩み寄る。
「もう少し調べたいことがあるんだ。ロイ、先に帰ってくれ」
「……顔色、悪いんじゃないか? 大丈夫か?」
   ロイは私の顔を覗き込んで言った。特に体調が悪いとも感じなかったが――。
「そうか? 何とも無いが……」
「早く帰って休んだ方が良い。急ぎの仕事でも無いのだろう?」
「それはそうだが……」
   今、体調を崩す訳にはいかない。此処はロイの言う通り、今日は早めに帰宅して休んだ方が良さそうだ。
「そうだな。待っていてくれ。今から帰り支度をする」
   そうした方が良い、とロイは言いながら頷く。持ち帰るものは持ち帰って、眼を通そうと、何枚かの書類をファイルにいれて鞄に収める。机の上を整理してから、ロイと共に帰宅の途についた。


「顔色が悪いわね、ルディ」
   帰宅すると母上が凝と私の顔を見てから言った。何の自覚症状もないが、風邪でも引いてしまったのだろうか。
「ロイにも言われて、早めに切り上げたよ」
「今日は早く休みなさい」
   母上は心配げに促す。顔色が悪いといっても、何ともないのだが――。
   部屋に戻り着替えながら鏡を覗いてみると、確かに蒼白かった。しかし貧血を起こしているということもない。顔色が悪いということ以外は、何も具合は悪くなくて――。
   いつも通りに夕食を摂り、それから少しだけ書類に眼を通して、ベッドに入った。疲れが溜まっているのか急激に眠気が襲ってきた。明日の朝になれば顔色も良くなっているだろう――と思っていた。


   それが――。
   真夜中に、それは起きた。


「う……」
   胸が圧迫されているような――。
   息苦しい。
   何だろう――と思いながら、ゆるゆると重い瞼をこじ開けた。就寝中なのに息苦しさを感じた。深呼吸を試みても息苦しい。酷い動悸で、まるで激しい運動をした後のようで――。
   起き上がり、呼吸を整えようと試みた。しかし何分経っても息苦しさは治らない。そればかりか息苦しさが増していく――。
   時計を見るとまだ午前3時だった。朝までまだ4時間ある。皆、寝静まっている頃だ。治まれ――自分に言い聞かせながら深呼吸を繰り返す。治まれ、治まれ――。
   不意に眼の前が暗くなる。まずい、気を失う――。
   電話を取り、内線番号を押す。子供の頃から具合が悪くなるとこうして母上の部屋に連絡した。真夜中にこんなに具合が悪くなることも何年ぶりのことだ――。
「ルディ、どうしたの?」
   母上の声が受話器から聞こえる。言葉を発することが出来なかった。ただ呼吸が精一杯で――。
「すぐ部屋に行くわ。楽にしていなさい」
   母上は私の状態を察したようだった。そのままベッドに蹲った。息苦しくて何も考えられなくなっていく――。


   真夜中だったが、すぐに医師を呼んで診察を受けた。薬を投与してもらい、暫くすると楽になったものの、心臓の検査を求められた。動悸と胸を締め付けるような息苦しさから、心臓かもしれないとは思ったが――、ショックだった。明日、検査をして、もし心臓に負担がかかっていることが判明したら、暫く休まなければならない。
   折角、昇進のかかった仕事を担当することになったのに――。
   何故、こんな時に――。



   翌日は仕事を休み、病院へと行った。
   検査の結果は――、良くなかった。すぐに仕事を休んで、身体を休めるようトーレス医師は言った。
   返事が出来なかった。
   治療を受けながら、無理はしないように努めることを訴えても、トーレス医師は首を縦に振ってくれなかった。一刻も早く身体を休めること、そうしなければ心臓麻痺さえ起こりうると――。
「せめて……、ひと月だけでも……」
「ルディ。良い加減にしなさい」
   付き添いの母上がぴしゃりと言い放つ。今後の治療についての説明を受けながら、ずっと仕事のことを考えていた。
   あまりに口惜しかった。
   昇進がかかっているのに――。
   昇進したら、国際会議での案件を担当出来る筈だったのに――。
   漸く仕事で認められ始めていたのに――。
   全てが水泡と化してしまうのか。私の身体が弱いために。


[2011.4.19]