あの時は父上に酷く叱られたものだった。頬を叩かれたのはそれが初めてで、しかも何度も叩かれて、恐怖心を覚えながらも同時に反発してしまった。悪くない――私は必死に自分にもそう言い聞かせていた。そうしなければ、あまりに辛かったから。
   ロイだけが学校に行けるということ、そしてそれを羨望するあまり、ロイの教科書を破いたことを後悔していた。手でびりっと破いた瞬間にさあっと冷や汗が流れたものだった。それでも必死に自分の行動を正当化した。今思えば愚かなことだが、あの時はもう気持ちのやり場が無かった。父に叱られ、母に促され、ロイに謝った時、ロイがけろりと私を許したものだから、余計に自分の愚かな行為が悲しく思えて、母の胸の中で泣いた。反省と悔悟――もう二度とすまいと自分自身に誓った。




   一時間にわたる式が終わり、教員に指示されながら教室へと向かう。
   何もかもが目新しかった。授業の時に使うのだろう広いボード、少し狭い机、それに同じ制服を纏った同級生達。

   この場所が、私がずっと望んでいた場所――。
   学校に行きたいとずっと願って、今年漸くそれが叶って――。
   これからどんな生活が始まるのだろう。

「君、式の時に代表の挨拶をした人だよね?」
   期待に胸を膨らませながら教室の様子をさりげなく見遣る。其処へ、隣の席に居た学生が声をかけてきた。返事をすると、周囲の学生達までもが此方を振り返る。
「凄いな。首席入学ということだろう?」
   入学試験の合格発表日の翌日、学校長から電話がかかってきて、そのことを知った。首席入学者には壇上で挨拶する習慣があるらしい。そのため、文面を考えてくるようにと言われた。
   興味津々の態で尋ねる彼に頷き応えると、彼はますます身を乗り出して言った。
「ジュニアスクールは何処に? 俺はヴィルシュテッタースクール出身」
   俺も、と彼の側に立っていた学生が告げる。周囲の学生達が次々と出身校を言い始めた。そして私に注目する。
「私は……、ジュニアスクールには通っていないんだ」
「え……? あ、もしかして国外の学校に?」
「あ、いや。そうではなくて……。身体が弱かったから、ずっと家庭教師に勉強を見て貰っていたんだ。学校に通うのは、高校からで……」
   学生達は驚いた視線を向ける。やはり私は特殊なのだろうか。
「ねえ、ロートリンゲンって名前を聞いて気付いたのだけど、もしかして貴方の家はあの旧領主家の?」
   女子学生が問い掛ける。また一斉に視線が此方に向けられた。ただ単に名前が同じなだけだろう――と、彼女に告げる声も聞こえて来た。
「旧領主家なら士官学校に行くだろうし。それにそうそう会えることもないよ」
「ロートリンゲン家ってあの大きな豪邸だろう?」
「だとしたら凄いよな。父親が陸軍参謀長ということだろう?」
   ざわつく周囲の学生達の話は、これまで私が接してきた会話とまるで違うものだった。ロートリンゲン家の人間であるということが、それだけ目立つことなのだろうか。
「……で、どうなんだ? 名前が同じなだけだろう? それとも親戚とか?」
   初めに声をかけてきた男子学生が問う。父上に兄弟は無く、またその親戚も絶えているが、彼等はそんなことまで知らない。
   だが――、嘘を吐く必要も無いだろう。
「そのロートリンゲン家だけど……」
   ぽつりと応えると、学生達が一斉に此方を見た。それまでとは違う、好奇だけではない、何か異質のものを見るような眼で――。
   どうしよう。ロートリンゲン家というだけで、こんなに注目されると思わなかった――。やはり言わない方が良かったのだろうか。

   その時、担当となる教員が教室にやって来た。学生達がそれぞれの席に戻っていく。
   少し安堵した。
   それにしても――。
   何もかもが違う――。
   同級生達とどう接して良いのかも解らない。あれで良かったのだろうか。


   教員からの説明を聞き終えて、この日は終了となる。私の周りに集まった学生達は頻りに家のことを聞いてきた。何不自由ない生活なんて羨ましい――と言った学生もいた。
   学生達の質問が一段落してから、荷物を纏めて、校門の近くに向かう。父上や母上が其処で待っている筈だった。私達学生が教員から説明を受けている間、保護者は保護者の説明会があったが、それでも随分待たせてしまったかもしれない。

   ところが。
   校門の前には人だかりが出来ていた。何だろう――と思っていると、10人ぐらいの人だかりの中心に父上の姿が見えた。
「父上。お待たせしました」
   呼び掛けると、父上は此方を見、それから周囲の人々に向かって、息子が来ましたので失礼します、と卒無く告げた。人々が離れると父上の隣に母上の姿も見えた。父上が手を挙げると、迎えの車が校門の前に停車する。その車に乗り込むと、母上が尋ねて来た。
「一日目はどうだった?」
「うん……。皆からロートリンゲン家の人間かって聞かれたんだ。……そんなに旧領主家の人間が珍しいのかな。同じ人間なのに……」
「全人口に対する旧領主家の割合は5%程度だ。珍しがられるのも奇妙なことではない」
   父上はきっぱりとそう言った。今迄考えたこともなかったが、5%となると確かに少ない。私やロイは同級生からみると異質の存在なのだろうか――。
「だが、だからといって怖じ気づくこともない。堂々と背を正していなさい。お前が今言った通り、皆、同じ人間だ」
「これから外に出る機会が増えて、色々なことを経験するでしょう。たとえそれが辛いものであっても、必ず先々に貴方の為になることよ、ルディ」
   父上の言葉に、母上が言葉を添える。
   私にはまだよく解らなかったが、きっと私はずっと邸のなかに居たから、知らないことが多いのだろう。同級生達が話していることも、少し理解出来ないことがあった。これからは、そうした対人関係にも気を配らなければならないのだろう。
   友達が出来ると良いな――。
   移りゆく窓の外の景色を見ながら、ふとそんなことを考えた。


【End】

[2010.12.31]