「フェルディナントがそんなことを……?」
   帰宅するなり、ユリアが深刻な表情で、話があると言ってきた。フェルディナントに関することだろう――と直感的に解った。具合が悪いのか、それとも学校に行きたいとごね始めたのか。
   ところが、ユリアから聞いた話は、私が予想していた以上のことだった。フェルディナントがハインリヒの教科書を破ってしまったのだという。それも、ハインリヒが学校に行けることを妬んで。
「ハインリヒはけろりとしていたが……」
「ロイには何も言っていないの。ルディの姿が見えなくて、探していたらロイの部屋でルディを見つけて……。ロイは下に居るのに何をしているのかと思ったら、破れたロイの教科書が手許にあったのよ。事情を聞いたら、ロイだけ学校に行けるのは狡いって……。ルディ自身、悪いことをしたという気持はあるのでしょうけど……」
「フェルディナントは? 部屋に篭もっているのか?」
「ええ。一人で泣いているわ。話をしようにも泣くばかりで……」
   ユリアは甘いところがある。叱ったというものの、それは注意に過ぎないだろう。
   子供達には僻みという感情を一番持ってほしくなかった。常々注意してきた。それなのに、フェルディナントにはそのことが解らなかったのだろう。
「……その教科書は何処に?」
「私の部屋に。……フランツ、フェルディナントを叱るのは当然だと思っているけれど、酷い叱り方はしないで」
   ユリアは、厳しすぎる――といつも私に言う。確かに、私は子供達を厳しく躾けている。こんな旧領主家に生まれたとなると、叱ってやれるのは両親だけだ。大人になれば、諂ってくる者ばかりが寄って来るようになる。子供達にはそんな彼等の上に胡座をかくような人間にはなってほしくない。何が正しくて何が悪いのか、自分で判断する眼を持ってほしい。だから、幼い頃からきちんと叱るべき時は叱らなければならないのに――。
「きつく言い聞かせなければフェルディナントは理解しない。理屈で対抗しようとする」
「ルディも辛いのよ。そのことも理解してあげて」
「辛いからといって、他人に迷惑をかけて良い訳ではあるまい」
   一旦、話を止めてユリアの部屋に赴いた。無残に破られた教科書がテーブルの上にあった。
「……酷いな」
   思っていたよりも酷い。ページを数枚破っただけかと思っていたが、見る影も無いほどばらばらになっている。
   それだけ、鬱憤が溜まっていたということか――。
   普段、大人しい子供であるがために。

   ばらばらになった教科書を持ち、フェルディナントの部屋へと向かう。ユリアが一緒に行こうとしていたので、部屋で待つよう告げた。ユリアが居ると、フェルディナントは反省するより先にユリアの許に逃げ込むだろう。



「フェルディナント」
   部屋に入り、呼び掛けても返事もない。部屋を見渡すと、ソファの一角に足を抱えて座っていた。
「返事も出来ないのか」
   フェルディナントは黙ったまま、俯いたまま、何も応えない。その顔は泣きはらしていた。
「これをやったのはお前だな?」
   フェルディナントの前に破られた教科書を置く。フェルディナントはまだ黙り込んでいた。
「応えなさい」
   フェルディナントは教科書を一度見ただけで、すぐに俯いて、肩を震わせながら泣き出した。
「泣かずにきちんと応えなさい。何故、このようなことをした?」
   暫く待った。しかしフェルディナントは相変わらず黙り込んでいた。
「自分が学校に行けないからといって、弟のハインリヒに怒りをぶつける。それもハインリヒの教科書を破るなどまったくもって酷い行いだ」
   怒りを抑えていた。何も言わないフェルディナントが、無言で抵抗を続けているように思えてならなかった。
「僻み心を持つなといつも言っている。お前は一番悪い心を持ったのだ」
「……悪くない……」
   この時、ぽつりとフェルディナントが言い返した。悪くない――?
「僕、悪くない……っ。ロイが……っ、学校に行くのが悪いんだから……っ」


   その言葉を聞いた途端、右手がフェルディナントの頬を打っていた。フェルディナントは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、しゃくりあげ始める。
「それが僻み心というものだ、フェルディナント。私はいつも言ってきた筈だぞ!? 自分に出来ないことを他の者が出来たからといって、僻むなと」
「だって……っ、僕だって学校に行きたいのに……っ、ロイだけ……っ!」
「身体が弱いから行けないのだといつも言っているだろう! 僻むな!」
「悪くないっ! ロイだけなんて……っ、ロイだけ狡い!」
   俯こうとするフェルディナントの襟首を掴み、もう一度頬を打つ。フェルディナントは大声をあげて泣いた。そういう心を持っては駄目だ――と言っても、フェルディナントは首を振り、悪くないと繰り返す。
   頑固な態度に怒りを覚えて、いい加減にしなさいと、また頬を叩いた。理解させなくては――と思えば思うほど、フェルディナントは悪くないと繰り返す。口答えを止めないフェルディナントの頬を四度目に叩こうとした時、その手を誰かが止めた。ユリアだった。
   いつのまにこの部屋に入ってきたかも解らなかった。
「部屋で待っていろと言っただろう」
「これ以上、叩かないで。貴方も少し落ち着いて」
   フェルディナントは大きな声で泣きながら、ユリアの許に駆け寄る。抱きつこうとするフェルディナントを、ユリアはそうさせなかった。両肩を持ち、ルディ、と呼び掛ける。
「お父様が何故、怒ったのかは解るわね?」
「ロイの……っ教科書……っ、破ったから……っ」
   泣きながらもフェルディナントはそう応えた。
「それは悪いことなのよ。ルディ。自分の思い通りにならないからといって、他人の物を壊しては駄目。……自分が悪いって、本当は解っているのでしょう?」
   フェルディナントは大泣きをする。暫く何も言わず、ただ泣いていた。ユリアは宥めもせず、ただフェルディナントを見つめていた。
   そうして暫くすると、フェルディナントはしゃくりあげながら、小さな声で、ごめんなさい、と言った。
「ロイにきちんと謝ることは出来る?」
   フェルディナントはぼろぼろと涙を流しながら、こくりと頷いた。その時になって、ユリアはフェルディナントを抱き締めた。
「先にロイに謝りましょうね」
「ごめん……なさい……っ」
   謝りながら、声を上げて泣く。

   ユリアの言っていたことが頷ける。この子は悪いことだと初めから解っていた。それなのに、それを認めようとしなかった。おそらくは自分で悪いことだと認めたくなかったのだろう。
   フェルディナントは此方を見て、ごめんなさい、父上――と言った。
「悪い心を持っては駄目だ。解ったな? フェルディナント」
   泣きじゃくるフェルディナントはそれ以上、声を出せない様子で、ただこくりと頷いた。


[2010.12.29]