つい今し方、フリッツがハインリヒ様を散歩に連れ出した。この間にハインリヒ様の制服を部屋に戻しておこうと思い立ち上がった時、奥様がリビングルームに戻って来た。先程まで、このリビングルームに居たフェルディナント様が急に居なくなって、奥様が部屋に探しにいったところだった。
「アガタ。私の部屋にきて頂戴」
   ハインリヒ様の制服を、ひとまずその場に置いておく。奥様の部屋に入ると、テーブルの上に無残な状態になった教科書があった。
「これは……」
   奥様は座を勧める。それから、教科書を見て切り出した。
「ロイの教科書よ。ルディが破ってしまったの」
「まあ……。フェルディナント様がそんなことを……?」
「ロイが学校に通うから、悔しがるかもしれないとは思っていたけれど、まさか此処までとは予想していなかったわ。……あの子、泣きながら破いた教科書を見ていたの。多分、悪いことだと思いながら、破いたのでしょうね」
   あのフェルディナント様が――。
   余程、辛かったのだろう。それにフェルディナント様はあまりそうした感情を口に出さないから――。
「……でも悪いことは悪いことですわ、奥様。フェルディナント様は謝られたのですか?」
「いいえ。僕は悪くないって、部屋に行ってしまったきりなの。今はベッドに潜って泣いているわ」
   奥様は教科書を見つめて、それから続けて言った。
「ロイにもこのことを伏せたままで、私が教科書を用意することが出来るわ。フランツにも内緒でね。フランツが知るとルディを酷く叱るでしょう。……けれど、ルディのことを考えると、そうしてはならないとも思うの」
   奥様は悩んでいらっしゃるのだろう。旦那様に伝えれば、旦那様はフェルディナント様をきつく叱りつける。だからそれを避けるためにも、旦那様には黙っておいたほうが良いのかどうか――。

「……今回のことはフェルディナント様に非のあること。それを看過することはなさらない方が宜しいかと思います。フェルディナント様の今後のためにも」
「……アガタもそう思うのね」
「フェルディナント様のためにも、今回は厳しくなさった方が宜しいと思います。フェルディナント様は必ず解って下さいますよ」
   奥様はびりびりに破れた教科書に触れる。何か考えながら、それを見つめているようだった。
「……ルディは内に篭もる傾向があるから、気を付けていたけれど……。こんな風にロイのものに当たってしまうほど、辛い思いをしていたのね」
「学校に行きたいとずっと仰っておいででしたから……。弟のハインリヒ様は学校に行けて、御自分は行くことが出来ないということをまだ納得なさっていないのでしょう」
「そうね……。何とか行かせてあげたいけれど……。先日も学校側に尋ねてみたのだけど、受け入れは難しいと言われたの。空気浄化装置を此方が学校に取り付けるとしても、万一何かが生じた時に責任を取れないと……。ルディのような重度の状態の子供は、病院内の学校に行くよう促されて……。でも……、ルディがそれでも良いというのなら、其方に行かせた方が良いのかしら……」

   病院内の学校への入学は、去年も旦那様と奥様が頭を悩ませていた。長期入院している子供やフェルディナント様のような先天性虚弱の子供が、その学校に入ることが出来る。車で通える距離であり、フェルディナント様が希望するなら――と旦那様がたも選択肢のひとつとして考えていた。
   しかし、その学校の教育内容は、文字を書いたり読んだりする程度のものだった。フェルディナント様は既に文字や数字を書くことのみならず計算や読書まで出来ていたから、その学校には通わせず、家庭教師を雇うことになった。
「家庭教師の先生が、フェルディナント様はよくお出来になる御子様だと仰っています。今後、フェルディナント様がハインリヒ様と同じ学校に通う日も来るでしょう。そのことを考えれば、フェルディナント様にはもう少し我慢頂き、家庭教師を続けられた方が宜しいかと思います」
   奥様は頷き、しかし何か考える風で言った。
「フランツも同じように考えているし、勉強のことを一番に考えるのも理解出来るの。けれど、ルディが学校に行きたいと言っているのは勉強というより友達が欲しいのではないかと思えて……。ルディもロイも幼稚園には通わせなかったから、二人とも友達が居ないでしょう。ロイはこれからきっと友達が出来るわ。でもルディはこの邸のなかに居る限り、友達も出来ない」
   友達――。
   ああ、言われてみればその通りだ。フェルディナント様にもハインリヒ様にも友達が居ない。いつも大人達に囲まれているから――。
   それに――。
「そうですね……。同じ世代の子供達を御屋敷に呼ぶと言っても、警備上、難しい面もありますし、それに、旧領主家の方々の御子様達もフェルディナント様方より年上の方ばかり……」
「ええ……。だから私としても、学校に行かせたいと思っているのだけど……」
   その時、奥様の携帯電話が鳴った。解りました、と言ってソファから立ち上がる。どうやら旦那様が御帰宅なさったようだった。
「アガタ。暫くロイを頼むわね。フランツと話を終えるまで、ルディの部屋に行かせないようにして」
「解りました。ハインリヒ様を呼び、ドレスルームで着丈の調整をしております」
それにネクタイの結び方も覚えてもらわなければならない。学校に行くまでに練習すれば、自分で結べるようになるだろうから――。
   奥様は頼むわねと言って、部屋を後にする。階段を下りて、旦那様を出迎える。その場にハインリヒ様も居た。

「父上。制服が届いたんだよ。ほら!」
   ハインリヒ様は嬉しそうに制服を見せる。旦那様は良かったな――と言ってから、さっと辺りを見渡した。フェルディナント様が居ないことに気付いたのだろう。
「お話ししたいことがあります」
   旦那様がフェルディナント様のことを問う前に、奥様が旦那様を見つめてそう言った。解った、と旦那様が応じる。絆の深い御夫婦のことだから、それだけで旦那様は解ったのだろう。フェルディナント様のことを問うことはなかった。
「ハインリヒ様。その制服の着丈をもう少し調整したいので、此方にいらして下さい」
   旦那様の足下に居たハインリヒ様に呼び掛けると、ハインリヒ様は頷いて、駆け寄った。ドレスルームに誘いながら、そっと背後を窺うと、旦那様と奥様が部屋に向かうのが見えた。
旦那様はお怒りになるだろう。

   それでも、今回のことはフェルディナント様が悪いことは明白だった。叱られても仕方のないことをした。
   が――。
   旦那様があまりに酷くお怒りにならなければ良い――奥様と同様、そのことが少し気にかかった。


[2010.12.27]