「ハインリヒ、行くぞ」
   父上に促されて執務室のソファから立ち上がる。鞄をその場に置いて、父上についていくと同じ階のフロアを進んでちょうど真ん中にあたる位置の扉を開けた。其処からさらに通路が繋がっている。そうして暫く歩いていく。
   宮殿には初めて来た。構造がまだよく解らないが、確か、宮殿の表側が軍務省や内務省といった省庁の本部が置かれていて、裏側が皇族方の居住区となっていると聞いたことがある。
「言い淀んだ時には私が援護する。お前は何も気にせず、ありのままを話しなさい」
   会議室Aと書かれた部屋の前に来た時、父上は立ち止まってそう言った。

   扉を叩いて、入室する。部屋のなかには、7名の大将達が既に控えていた。敬礼をして挨拶をし、父上の座った席の背後に立つ。
「噂に名高い御次男ですな。幼年コースから士官学校に在籍なさっておられて、来年には大佐と……」
「まだ未熟者だ。来年からは宜しく頼む」
   俺の代わりに父上がそう言った。彼等は俺のことをいつまでも眺めていた。

   やがて先程会った陸軍長官が入室する。陸軍長官は父の側に腰を下ろした。それから程なくして――、会議開始直前になって、5人の大将が入って来る。一人は海軍長官の章を付けていた。敬礼すると、そのうちの一人が鋭い視線を此方に投げかけた。
「士官候補生から報告を聞くために大将が集うなど前代未聞ですな。時間の無駄とならなければ良いが」
   時間の無駄――。
   今回、俺をこの場に召集した陸軍長官とは、意見を異にする人達なのだろう。陸軍部の章をつけているが、まさかこの人が――。
「フォン・シェリング大将。状況を説明出来る者が彼以外に居ないのだから、仕方あるまい。さて、会議を始めたい」
   フォン・シェリング大将――。今、確かに陸軍長官がそう言った。
   この人が、フォン・シェリング大将なのか。

   時間の無駄という先程の言葉に驚いたが、彼の言葉で、緊張が一気に冷めてしまった。
   不思議と落ち着いている。
「演習中の訓練艦で生じたインフルエンザの蔓延について、詳細な情報を此方に控えているハインリヒ・ロイ・ロートリンゲン士官候補生から説明してもらう。彼は訓練艦に乗り込み、寄港命令が出る時まで操舵室に居て、状況には一番詳しい。ではロートリンゲン士官候補生、説明を頼む」
   陸軍長官に促され、返事をする。
   ハインリヒ・ロイ・ロートリンゲン士官候補生です、と名乗る。
   それから、話し始める。
「9月11日0900、ニース港を出港しました。その際……」
   思っていたよりも楽に言葉が出て来る。頭のなかで順を追いながら、ひとつひとつを話していく。

   10分ぐらいそうして報告した。報告は以上です――と話を終えると、陸軍長官は笑みを浮かべ、ありがとう――と言った。
「解りやすい報告だった。さて、今の話に基づき、議論を進めていきたい」
   長官がそう告げると、父上が此方を見て、部屋で待機していなさい――と言った。返事をしてから、敬礼し、会議室を立ち去る。
   終わった――。
   意外にもそれほど緊張もしなかった。父上も何も言わなかったから、多分あの報告で良かったのだろう。


   安堵しながら来た通路を戻る。途中、将官達と出くわして何度か敬礼した。そうしながら、父上の執務室に向けて歩いていた時――。
「君がロートリンゲン大将の子息か」
   見知らぬ人に呼び掛けられ、立ち止まる。敬礼をすると、彼は上から下まで舐めるように俺を見た。
「学生の身分で此処に立ち入るとは……」
「私はただ会議に召集されて……」
「それ自身が特例のようなものだ。役に立たない学生の身分で会議に出席して何になる」
   何故――。
   何故、俺はこんなことを言われなくてはならない……?
   それとも喧嘩をふっかけられているのか……?
「ロートリンゲン士官候補生」
   背後から呼び掛けられて振り返る。今度は誰だろう。
「参謀本部の将官達が探していましたよ。早く参りましょう」
   温厚そうな若い青年がそう言った。誰だろう……? 陸軍ではなく海軍所属の章で、参謀本部の職名章を身につけている。しかし、参謀本部で挨拶をした時にはこの人の姿は無かった。初めて顔を合わせると思うが――。
   彼は俺を促し、その場を退散させた。先程の男が、舌打ちをする。やはり俺は喧嘩をふっかけられていたのか――。
「先程の少将はフォン・シェリング大将に頼まれてあのような態度を取ったのでしょう。万一にでも喧嘩になると君の立場が悪くなると思って、口を出しました。余計なことを申し訳ない」
「いいえ……。助かりました。ありがとうございました」
   人気の無い通路を歩きながら彼に礼を述べる。階級章から察するに、海軍部の少将のようだった。
「あの、閣下は海軍部の方ですか……?」
「海軍部参謀本部所属クリスト・ヘルダーリン少将です」
   おそらくまだ若いのだろう。俺よりいくつか年上といったところだろうか。彼は参謀本部までやって来ると、何処かで待機なさるのですか――と尋ねて来た。
「父の執務室で」
「場所は解りますか?」
「はい。どうもお世話になりました」
   礼を述べると、彼は微笑んでそれでは、と言ってから参謀本部室に入っていった。

   それから、父の執務室へと向かい、少し前まで座っていたソファに腰を下ろした。会議での報告も恙無く終わり、何もすることが無い。手持ちぶさたで、何となく周囲を見回した。父上の机の上には、本と書類が積み上がっている。机の脇の書棚には国防関係の書籍がずらりと並んでいる。
   壁にかかった時計を見ると、まだ30分しか経っていなかった。父上が戻ってくるまでまだ時間がかかるだろう。本を一冊借りて、それを読みながら待っていよう――。

   本を読んでいると、扉が叩かれる。父上――ではないだろう。誰だろう。
「はい。どうぞ」
   すると扉が開いて、報告は終わりましたか――と、一人の将官が珈琲を淹れた盆を持って現れた。
「はい。今し方終わりました」
「では此方でのんびりと珈琲をどうぞ。……熱心な方だ。休憩もせず読書とは」
   彼はそう言って、俺の前にカップを置いた。ありがとうございます――と礼を述べると、おそらく会議はまだ大分かかりますよ――と教えてくれた。
「そうですか……。父に此方で待つよう言われたのですが……」
「大将級会議となると2時間はかかります。お暇でしたら、いつでも省内を案内しますよ」
「ありがとうございます。ですが、学生の私が彷徨いて良い場所でもないので、此方で待機しています」
   先程のようなことが起こらないとも限らない。此処で大人しく待っていた方が良いだろう。
   温かい珈琲を飲みながら読書を進めつつ、時計を時々見上げたが、12時を過ぎても父上は一向に戻って来なかった。会議が紛糾しているのだろうか。12時を30分過ぎた時、副官の中将がやって来た。
「昼食を此方にお持ちしましょう。どうやら会議が大分長引いているようですよ」
   紙に書いたメニューを此方に差し出した時、この執務室の電話が鳴った。副官はすぐに机に出向いて、応答する。閣下、と彼が言って此方を見遣った。父上のようだった。
「はい。解りました。すぐお連れします」
   彼は機微機微とした声でそう応えると、俺の方を上から下まで眺めた。
「身だしなみは問題ないでしょう。お父上が奥の間の前でお待ちです。皇帝陛下が謁見なさいたいとのこと」
「え……!?」
   皇帝陛下が謁見――!?
   何故、そんなことに――?
「参りましょう」
   中将に促されて、動揺を抑える。だが、何故皇帝陛下が何故、謁見を求めたのか解らなかった。否、こんなことは頻繁にあるのだろうか――。


「フォイルナー中将。休憩中に済まなかった」
「いいえ。書類を机まで持ち帰りましょう」
   父上が書類を差し出すと、それを受け取ったフォイルナー中将は一礼して立ち去っていく。父上は俺を見て言った。
「お前が此処に来ていることが陛下のお耳に入って、お前に是非会いたいとの仰せだ」
「父上……。陛下と謁見ってどういうこと……!? 俺はまだ学生で……」
「旧領主家の人間だからだ。特にお前もフェルディナントも社交界にまだ一度も顔を出していない。以前から、会ってみたいということを仰っておられたのだが……。兎に角、陛下にお会いしたらきちんと挨拶しなさい。出来るな?」


[2010.11.18]