この朝はいつもより早く眼が覚めてしまった。
   ハインリヒが大将級会議に参加するということで、却って私の方が緊張しているのだろう。ユリアはまだ眠っていたので、そっとベッドから降り、浴室へ向かうことにした。ところが――。
「お早いのね、今日は」
   ベッドからするりと降りた時、ユリアが眼を覚ました。起こして済まない――と告げると、ユリアは笑んで、心配なの?と問い掛けてくる。
「心配していないといえば嘘になるな。……8割方は心配無いと思っているのだが」
   そう告げると、ユリアは起き上がって、大丈夫よ――と言った。
「きちんと報告出来るわよ。皆様方に失礼が無いようにとだけ、私からも伝えておくわ」
   ハインリヒももう子供では無いのだから――頭のなかで自分にそう言い聞かせながら、苦笑を返す。
   身支度を済ませてダイニングルームに行くと、制服姿のハインリヒが昨晩のメモを眺めていた。おはよう、父上とハインリヒが声をかけてきたその時、フェルディナントもやって来る。

   いつも通り、四人で食卓を囲み、その後ハインリヒと共に出掛ける。いつもと変わりなく、歩いて本部に向かった。外を歩くのは久々だ――とハインリヒは周囲を見渡しながら言った。
「来年になったら否応でもこの道を往復することになる」
「本部に所属出来るかな?」
「卒業時の成績優秀者から本部に所属となるな。お前次第だ」
「……もし本部所属となれたら、父上と一緒に通うことになる……って考えると、不思議な感じがするよ」
「何を言っている。私は来年には退職する。親子二代で同じ職場に居ることは無い」
「……それ、本当なの? 父上」
「以前から言っているだろう。私はお前が軍に入ったら、退職する、と。役目は終えたのだから、悠々自適の生活を送らせてもらう」
   ハインリヒは何か言いたそうに此方を見ていたが、そうするうちに宮殿に辿り着いた。

   宮殿の正面入口に来ると、衛兵達が敬礼をする。彼等は一様にハインリヒを見遣った。
「長官の命令で息子を連れて来ている。ハインリヒ、学生証を提示して挨拶しなさい」
   ハインリヒは胸元から学生証を取り出し、それを彼等に提示して敬礼する。すると、彼等はお通り下さい、と一礼した。
   宮殿のなかに進み、軍本部へと向かう。会議の開始は30分後だからまだ時間がある。長官に挨拶をしてから、参謀本部室で待機させておくか。
「ハインリヒ。これから陸軍長官の許に挨拶に行くぞ」
「これからすぐに……?」
   宮殿の廊下を歩き、軍本部の入口を通り抜ける。すれ違う将官達が挨拶と共に敬礼し、そしてハインリヒを一瞥する。ハインリヒは一礼して、私の後をついてくる。
「長官。失礼します」
   長官室の扉を叩くと、秘書官の声が聞こえて来た。幸い、長官はもう此方に来ているようだった。
「おはよう、フランツ。其方が御子息か」
「ハインリヒとお呼び下さい。ハインリヒ、御挨拶を」
   ハインリヒはぴしりと敬礼して、ハインリヒ・ロイ・ロートリンゲン士官候補生です、と名乗った。長官は微笑ましそうにハインリヒを見、君の若い頃にそっくりだと私を見て言った。
「急にこんな要請をして済まなかった。今日は宜しく頼む」
   長官の言葉にハインリヒがはいと応えた時、長官の机の上の電話が鳴った。長官は口元に指を添え、私達に静かにしているよう促した。
「……10時に? 解った。仕方が無いな。では各大将にそれを伝えておいてくれ」
   そうして電話を置き、会議は予定より30分延期だ――と私を見て言った。
「延期というと、10時に開始を?」
「最大限の嫌がらせなのかもしれんな。君には申し訳ないが、暫く待っていてくれ。応接室を開けようか? フランツ」
「いいえ。参謀本部で待機させておきます。では此方に長居しない方が良いでしょうから、また後程」
   ハインリヒを促し、長官室を後にする。参謀本部に入るの――とハインリヒは驚いて問い返した。
「ああ。参謀本部で一度挨拶をして、それから私の執務室に居なさい」
   行き交う将官達が興味津々の態でハインリヒを見る。この場では士官学校の制服は非常に目立つから仕方が無い。

   参謀本部に行くと、将官達が立ち上がり、挨拶をする。ハインリヒを紹介し、挨拶を済ませてから、さらに奥の執務室へと向かう。ソファに座っているよう促すと、ハインリヒは溜息を吐いた。
「廊下を歩くだけで緊張するよ……」
「そんな風だと来年はもっと大変だぞ」
「解ってるけど……」
   ハインリヒは息をひとつ吐いてから、鞄のなかからメモを取り出した。会議までの間にもう一度確認しておくつもりなのだろう。
「閣下。失礼します」
   扉を叩く音が聞こえ、返事をすると、部下の中将が姿を現した。決済用の書類を持って来たのだろう。ハインリヒが立ち上がり敬礼をすると、彼も敬礼を返した。
「此方はフォイルナー中将だ。私の副官を務めてもらっている」
   簡単に紹介すると、ハインリヒは会釈して、ハインリヒ・ロイ・ロートリンゲン士官候補生です――と名乗った。フォイルナー中将は微笑して、閣下からお話は聞いていますと応える。
「会議の開始が延期されてしまってな。此処で待機させている。それから、会議冒頭で報告をさせてすぐ去らせるつもりなのだが、会議終了まではまたこの部屋で待機させようと思っている。構わないか?」
「宜しかったら、省内を御案内しましょうか?」
「いや、無闇に動かない方が良いだろう。それに来年になれば、軍服を着て此方に来ることもあるだろうから、見る機会は沢山ある」
「解りました」
「用件があって来たのだろう。何だ?」
「軍務局から急ぎの書類が舞い込みました。午前中にこの書類の決裁をお願いします」
「解った。今、済ませてしまおう」
   書類に一通り眼を通し、机のなかからペンを取り出す。さらりと書名を終えると、ありがとうございます、と中将は言って書類を引き取り、退室する。
「もう一人、お前に引き合わせたい人物が居るのだが、国際会議に出張中でな」
「この参謀本部の人?」
「いや、軍務局の中将だ。語学が堪能だから、国際会議によく引っ張られる」
   彼とはまたいずれ、機会があるだろう。来年、ハインリヒが本部に配属させてからのことでも遅くは無い。
   暫くすると、ハインリヒは再びメモを読み始めた。


[2010.11.16]