ハインリヒは入院して四日目にはすっかり元気を取り戻した。食欲も旺盛になり、ユリアが差し入れたケーキもぺろりと平らげたらしい。
   一方、軍本部では事件の究明が続けられていた。カルナップ大将は毎日本部に呼び出され、一連の説明を求められている。艦内の状況については、どうやら詳細な情報が得られていないようで、私がハインリヒから聞いたことを伝えておいた。
   ハインリヒの話によれば、演習担当の中将級の教官が、断固として寄港を拒んだらしい。彼は士官学校に居て、通信を使って艦に指示を出していたようだった。
   ハインリヒ達学生が何度も寄港したいと求めながら拒んだのもこの中将が拒否したらしい。君達は最上級生だ、この時期になってもまだ教官がなくば艦を動かせないのか――と一喝されたとハインリヒは言っていた。それに対して、これだけの被害が出ているのに、航行は続けられないとハインリヒ達学生は返したらしい。
『父上だったら……、どう判断した?』
   その話を聞いたとき、ハインリヒが私にそう問い掛けてきた。その口振りから察するに、ハインリヒも随分悩んだようだった。
『たとえば戦時中に、今回と同じ状況に陥ったとしたら、私は艦を近隣の港に寄港させるだろう。艦の乗員が動けないのに敵と遭遇したら対応出来ない。今回のことは中将の判断ミスだと私は思っている』
『……判断ミスをすると……、やっぱり処分があるの?』
『そうだな。今回は被害が甚大だったから、降格処分となるだろう』
『……厳しいね』
『人命に関わることだ。ハインリヒ、お前も同じ立場となった時、きちんと対応が出来るよう、常々色々な状況を想定して行動するようにしなさい』
   入院から一週間が経った昨日、ハインリヒは退院して邸に戻った。それを誰よりも喜んだのがフェルディナントだった。
   ハインリヒはあと三日、此方で過ごした後に士官学校へと戻ることになっている。演習は来月にもう一度執り行うことになったらしい。



   とりあえずハインリヒのことは一段落して執務を行っていたところ、机の上の電話が鳴った。受話器を取り応答すると、長官の声が聞こえて来た。
「解りました。すぐ其方に行きます」
   話がある――と長官は言った。この時期に私を呼び出すということは、もしかすると、カルナップ大将の件だろうか。
   長官室に足を踏み入れると、長官は御子息は退院したそうだな――と言った。
「ええ。御心配をおかけしました。本人は至って元気です」
「そうか。それを聞いて安心した。……ところで、君の御子息から是非話を聞きたいと思っているのだが……」
「……今回のことをですか?」
「ああ。事情があってね。教官達のなかには明らかに回復しているにも関わらず、報告を拒む教官も居る。誰もが責任回避しているのだろう」
「解っているのに彼等を見逃すおつもりですか?」
「状況が解ってから、処分を下すことも出来る。何よりも今は正確な情報が欲しい。大将級会議に出席して艦内の情報を報告するよう伝えてもらえないか?」
「……会議に出席……ですか……」
「会議冒頭で艦内の状況説明をしてもらいたい。まだ正式な軍人でない候補生に依頼する話ではないことは重々承知しているが、公平な視点で客観的な報告が必要なんだ。それに君の御子息は優秀だとの評判も聞いているぞ」
「学生にすぎませんよ。客観的に報告が出来るかどうか……」
「君がフォローしてくれて構わない。……実は今回の一件を利用して、カルナップ大将を追い落とそうとする動きがある。無論、カルナップ大将の責任は免れまいが、免職までは……とな」
   成程。それで事実を明かしたい訳か――。
   今回の一件で、艦内の状況を脚色無く語ることの出来る人物となると、ハインリヒということになる。他の学生に任せても、彼等も将来のことを考え、口を閉ざしてしまうだろう。
「……解りました。息子に話してみます」
「頼むぞ」
   だが――。
   まだ出来るだけ、この軍務省から遠ざけておきたかった。これまで一度もハインリヒをそうした場に出していない。フォン・シェリング家や他の旧領主家の面々、否、そればかりか会議に出席する将官達は好奇の視線を向けるだろう。
   ロートリンゲン家の跡取りが、どれだけの人材かと眼を光らせながら。
   長官もそれを解っているだろうに――。



「え!? 俺が会議に出席!?」
「そうだ。長官からじきじきに要請があった。明日の会議の冒頭で、当時の艦内の状況を報告してほしい」
「でも……、俺はまだ学生で……」
「そのことは長官も承知の上だ。本来なら教官や軍医の役目だが、まだ復帰していない。長官もやむなくお前を指名したという次第だ。お前にとっては初任務ということになるが……、出来るな?」
   ハインリヒは言葉が出ない様子で私を見つめていた。ハインリヒ、と返事を促すと、ハインリヒは息を飲んでから言った。
「会議って……、参加しているのはどんな人達……?」
「今回は異例のことだったため、陸軍および海軍の上層部が全員出席する。つまりは本部在籍の大将級全員だ」
「大将級全員……」
   ハインリヒは遠い目をする。来年になれば、ハインリヒ自身もそうした将官達と共に仕事をするのに、何を怖じ気づいているのだか――。
「……父上も?」
「勿論、私も出席するし、お前の発言の援護もする」
「……準備……しないと……」
「ハインリヒ。事実を客観的に述べれば良いだけだ。そう緊張することもない。明日は頼んだぞ」
   ハインリヒは緊張した面持ちのまま、はい、と応えた。そして珈琲を飲み終えるとすぐに部屋を後にする。ルディ、後で付き合って――とフェルディナントに声をかけてから。
   兄弟仲が良いのは結構なことだが、いつになったら兄離れするのやら――。


「……大将級会議となると、フォン・シェリング大将も出席するの?」
   その後、フェルディナントが立ち去ると、ユリアが徐に問い掛けてきた。フォン・シェリング家との確執はユリアもよく承知しているから、気にかかったのだろう。
「ああ。……私としてもまだハインリヒを表に出したくなかったのだがな」
「ロイが嫌な思いをしなければ良いけど……」
「お前にだけ言っておくが、士官学校学校長のカルナップ大将の処分が絡んでいるんだ。それを利用して動いている将官が居る。組織内の足の引っ張り合いだ。そうしたことに眼を背けようと、教官達がずっと休暇を取ったままのようだ」
   ユリアは私を見つめ、そんな役目をロイに負わせるの――と問い掛けた。
「私とて気乗りはしない。……だが、ハインリヒが適任といえば適任だ。他の学生に任せたとしても、彼等も将来のことを考え右往左往するか、出席を拒むだろう。……それにハインリヒも来年になれば大佐となり、軍に所属することになる。遅かれ早かれ、組織内の派閥抗争に塗れることになる」
「フランツ……」
「そんな状況のなかではなかなか難しいことだが、出来るだけ公正な眼で物事を見、捉えられるような人間になってほしいものだな。ハインリヒにもフェルディナントにも。……とりあえず、フォン・シェリング大将のことは耳にいれておくか」
   ユリアは頷いて、ロイを呼びましょうか――と告げる。それを制する。
「私からハインリヒの許に行こう。……おそらくフェルディナントと一緒に居るだろう。フェルディナントも官吏となるのなら、フォン・シェリング家との確執は知っておく必要がある」


[2010.11.13]