救急車が到着する。ユリアと共にロビーで待ち受けていたところ、ハインリヒが運び込まれてきた。制服姿のままだった。ジェノヴァの病院では、あまりに多数の患者が押し寄せたため、対応しきれなかったのだろう。
「ロイ」
   ハインリヒを乗せた寝台が病室に向かって動いているところを、ユリアが側に寄って呼び掛ける。ハインリヒは眼を開けて、母上、と掠れきった声で言った。顔色も悪いが、意識は明瞭だった。

   六階の病室へと運ばれてから、ハインリヒはトーレス医師の診察を受けた。ジェノヴァの病院に運び込まれてから、ずっと投薬を受けていたようで、その効果あって、熱は下がり始めているようだった。しかし、数えるほどしか発熱したことのないハインリヒは、酷く苦しそうな息を吐いていた。
「暫く入院……?」
   診察を終えたハインリヒは、掠れた声で問い掛けながら、私達を見遣る。ユリアが頷いて言った。
「ええ。治るまで病院で治療を受けてね。ルディにうつると大変だから……。ごめんなさいね、ロイ」
「解ってる……。俺だからこの程度で済んでるけど……、ルディだったら危なかった……。動けない人も居たし……」
   一度咳き込んで、それから息を吸い込む。それからハインリヒは私とユリアを見遣って、笑んでみせ、俺は大丈夫――と言った。
「全員が感染したと聞いている。艦では辛かっただろう」
「俺がうつったのは、感染が広がってきて、ジェノヴァに寄港命令が……出てからだから……」
「そうだったのか……」
   まだ聞きたいことはあったが、ハインリヒは話すのも辛そうで、これ以上問い掛けるのを止めた。ゆっくり休みなさい――と告げると、ハインリヒは頷いて眼を閉じる。
   ハインリヒが眠りについたのを見計らってから、この日は病院を後にした。重症ではないと解っていても、一目確認するまでは心から安堵出来ないもので、ユリアも私も胸を撫で下ろしながら帰宅した。



   邸ではフェルディナントをはじめフリッツやアガタが待ち受けていた。ハインリヒのことを心配していたようで、ロイの具合は――と問い掛けてくる。
「熱も下がってきているから心配無い。とりあえず一週間入院させて、様子を見ることになった」
「父上。私のことなら予防に努めますから大丈夫です。軽症なら、ロイを帰宅させて下さい」
   フェルディナントが告げる。まったくハインリヒは事情をわかっていたというのに――。
「お前はまるで何も解っていない。ハインリヒは入院するということに納得していたぞ。お前にうつしてはならない、とな」
「ですが父上……」
「ハインリヒの心配をするなら、まずは自分の健康管理に気を配ることだ。お前はそれすらも出来ないだろう」
「フランツ。ルディがロイの心配をするのは当然のことよ。そんな風に言わないで」
   ユリアに止められて、口を噤むと、フェルディナントは視線を落とす。
   ユリアはいつも私がフェルディナントに対して冷たい言葉を浴びせるという。だが、そうしなければフェルディナントは気付かない。他人を思うあまり、自分自身を軽視することを。自分を犠牲にすることを厭わないような発言は――、私は好かない。



「言い過ぎよ、フランツ」
   寝室で二人きりになると、ユリアは苦言を漏らした。フェルディナントにきつい言葉を浴びせた後はいつものことだ。
「ハインリヒを邸に連れ帰ることが、自分の身にとってどれだけ危険なことか、フェルディナントは解っていない。だからああ言ったまでだ」
「ルディだって解っています。でも、それ以上にロイが可哀想だと思ったのでしょう」
「そのことも解っている。だが、それが自分にとって命取りとなることだということまでは解っていないんだ。いつまで経っても自分を大事にしない」
「貴方の言いたいことは解るけど、それならそうとルディに言ってあげたら? いつもきつい言葉ばかりで、たとえそれがルディを想うための言葉であっても、逆効果で傷付けているのよ」
「自分を大切にしろとは、これまでにも何度も言ってきた。そのたびにフェルディナントは素直に頷く。……が、今でもって命を軽視する。自分の命の重みというのは、言葉で説明しても解らないものだ。とくにフェルディナントにはな。……私が何を言おうと、フェルディナントは却って意固地になる。私は嫌われているからな」
「嫌われるようなことばかり言うからよ」
   フェルディナントが私に一線を画していることはその態度を見れば解る。だが、私はフェルディナントに対する私の態度が間違っているとは思わない。誰かが教えてやらなければ、一生気付かないことだ。



   翌日、私はいつも通り軍務省に出勤し、ユリアはハインリヒの許へと行った。この日の帰宅時にも第7病院に寄ったが、ハインリヒは高熱も引いたようで、まだ咳が残っていたが大分楽になったようだった。
「ずっと母上が居てくれたよ」
「そうか。顔色も大分良くなったな」
「久々に10時間以上眠ったよ」
   ハインリヒは笑いながら言って、また咳き込む。横になるよう告げると、もう大分楽なんだ――と言った。
「一週間ゆっくり休みなさい。……具合が良いのなら、少しだけ状況を聞きたいが……」
「あ、うん。解った」
   今回のインフルエンザ騒動は、キース卿が危惧していた通り、本部では大騒ぎになっていた。今日、カルナップ大将が本部に召集を受けて、一連の報告を行った。艦内の報告は教官が行うことになっているが、その教官5名のうち3名が重症患者で、2名もまだ復帰出来ないということだから、状況が今ひとつ見えてこない。乗艦していた軍医ですら、寄港後に過労で倒れこんでしまったという状態で、まだ話を聞くことが出来ない。
   そんななかで既に、カルナップ大将の処分まで持ち上がっている。これだけの被害をもたらしたことに対する責任を取るよう、今日の会議でも大将達が詰め寄っていた。
「ニース港に寄港した時に補充要員の技師が10名乗ったんだけど、そのなかの1人が具合が悪かったんだ。技師から次々倒れていったから、彼が感染源であることは間違いないと思う」
「ニース港……ということは、比較的早期の段階で感染が始まったということか」
「演習に出て3日目にニース港に寄港したから……。技師から次々と学生の間にも広まっていって、教官まで感染してしまって……。寄港命令が出た時には、艦内の8割が感染してたんだ。その頃には、教官も全員感染していたし……。感染していない者は操舵室で指示を仰いでたんだ。俺もずっと操舵室に居たんだけど、でもジェノヴァに到着する二日前に感染して……」
「操舵室に居たということは、お前は一連のやり取りを全て見ているのだな?」
「寄港命令が下るまでの間は。……学校側は本来の寄港地だったバルセロナまで艦を動かすようずっと言っていたのだけど、俺が倒れる前でさえ既に5人しか残ってなかったから、何としても近くのジェノヴァに寄港したいと申し出たんだ」
「5人か……。それは全員学生ということだな?」
「あと軍医が。軍医は最後まで感染しなかったと思う。……俺達は皆、予防接種を受けていなかったんだ」
「……それは聞いている。そのことで少々、本部で問題になっているんだ。……艦内の状況を知りたかったが、教官がまだ回復していないから聞けなくてな」
「教官達は前代未聞だと言ってたよ。……俺からみても、地獄だったよ……」
「……だろうな」
   30分程話をしたところへ、面会終了が告げられる。ハインリヒにゆっくり休むよう告げて、病院を出た。


[2010.11.12]