今日の講義は午後四時までで、図書館に寄って本を借りてから、邸に戻った。
   いつもと特に変わったことのない日だった。帰宅するこの時までは。
「ただいま。ミクラス夫人」
   この日は珍しくミクラス夫人が迎えに出て来た。いつもはフリッツが玄関で迎えてくれるのだが、忙しいのだろうか。そんなことを考えていると、廊下の奥からパトリックと二人話しながら歩いてくる姿が見えた。此方に気付いて、足早に駆け寄り、お帰りなさいませ――と声をかけてくれる。
「ただいま。フリッツ。パトリック」
「フリッツさん、お電話です」
   間髪いれずに使用人の一人が電話を告げる。フリッツは失礼します、と言って慌ただしく電話口に向かった。
「……何かあったのか?」
   ミクラス夫人とパトリックに問い掛けると、実は、とパトリックが教えてくれた。
「先程、旦那様から連絡があったのです。ハインリヒ様が演習中にインフルエンザに罹ってしまわれたと……。奥様にも先程連絡を取って此方にお戻りいただくことになっているのですが……」
「ロイがインフルエンザ……!?」
   驚いて問い返すと、ミクラス夫人は重症ではないとのことですよ――と言葉を添えた。
「そう……。ではすぐ此方に帰ってくるのか?」
「いいえ。今は軍の病院にいらっしゃるのですが、これから第7病院に入院なさる予定です」
「入院……? 重症ではないのだろう……?」
「重症ではないのですが……。その……」
   言い淀むパトリックに代わり、ミクラス夫人が言った。
「万一にもフェルディナント様にうつってしまっては大変なことになります」
「そのためにロイが入院を……?」
   それならば私がロイに近付かなければ良いことであって、軽症ならば入院の必要は無いではないか――そう返そうとした時、玄関の扉が開いた。母上だった。今日は美術展の式典のために出掛けていたが、戻って来たのだろう。

「母上……」
「お帰りなさい、ルディ」
   母上はそう言ってからすぐパトリックとミクラス夫人を見遣り、トーレス医師に連絡は取ったのか問い掛けた。
「はい。搬送と入院の手続きを今、フリッツが行っております」
「ありがとう。フランツの話によると、熱は高いけど重症ではないそうね。……突然のことで吃驚してしまったけど……」
「母上。何故、ロイに入院を? 軽症なら自宅療養が可能だろうし、私のことなら私がロイの部屋に近付かなければ良いだけなのに……。それに私は予防接種も受けているし……」
「ルディ。それでも貴方への感染が怖いのよ。万一にでも貴方が感染したら、軽症では済まなくなるの」
「でもロイが……」
「ロイのことなら大丈夫よ。私が毎日病院に通って付き添うから」
   母上もミクラス夫人も、私をロイに近付かせまいとしていた。確かに虚弱体質であるし、重症化を恐れるのは解るが――。
   でもそのためにロイが犠牲になるとは――。
「フェルディナント様。先にお召し替えになって下さい。手洗いと嗽もしっかりなさって」
   ミクラス夫人に促されて、階段を上がった時、母上の携帯電話が鳴った。どうやら父上からのようだった。
   それにしてもロイがインフルエンザだなんて、一体どうして――。



   それから2時間後、母上はまた出掛けていった。ロイがもうじき搬送されてくるため、第7病院へと向かった。私は一緒に行くことも出来ず、ミクラス夫人と共に母上の帰宅を待っていた。
「大丈夫かな、ロイ……」
   何気なくミクラス夫人に問い掛けると、ミクラス夫人は重症ではないのですから大丈夫ですよ――と言った。
「奥様がお帰りになったら、ハインリヒ様の様子を教えて下さいます。きっと演習の最中でしたし、そのお疲れもあってインフルエンザに罹ってしまわれたのでしょう」
   何だか本を読む気にもなれなかった。いつもは丈夫なロイがインフルエンザに罹ってしまったとは。余程性質の悪いものだったのかもしれない。だが何よりも――。
「私のせいで帰って来られないのが……、可哀想だな」
「仕方ありませんよ、フェルディナント様。このうえフェルディナント様が感染なさっては本当に大変なことになります」
「でも私がロイの部屋に行かなければ……」
「病院であっても病室から出る時は殺菌しなければなりません。御屋敷では其処まで殺菌処理が出来ませんから……。それに一度、フェルディナント様がまだお小さい頃、ハインリヒ様に風邪をうつされたことがあって、その時も大変だったのですよ。憶えてらっしゃいませんか?」
「風邪……?」
「五歳……いえ、もっとお小さい……三歳かそのぐらいの頃のことですよ」
   そんなことがあっただろうか。ロイが風邪を引いたという記憶は――。
   あ――。
   あった。

   思い出した。私が三歳の頃だ。ロイが二歳で――。
「……そんなことがあったな」
「思い出されました? ハインリヒ様は比較的軽い風邪だったのですが、フェルディナント様は暫く寝込んでしまったではないですか。旦那様も奥様もそれを心配なさっているのですよ」
   ロイが二歳の時、あれは昼だったか、リビングルームで遊んでいたが、何度か咳とくしゃみを繰り返した。側に居た母が変調に気付いたが、ロイはその時はいつも通りの元気があって――。
   ところが夕方になって熱を出した。私にロイの部屋に行っては駄目よ――と母は諭していた。私はその約束を守り、その日は一人で遊んでいたが……。

   ロイは翌日の午後には元気を取り戻していたようだった。それでもまだ一緒に遊んでは駄目だと母や父は言っていた。つまらなかったが、仕方がなかった。
   ところが、その晩、ロイが私の部屋にやって来た。いつもと変わらない元気な様子でベッドに潜り込んできた。夜中になって、ミクラス夫人が気付いて、ロイにベッドに戻るよう促したが――。
   私は思いきり、風邪をうつされてしまった。それもロイは三日で完治したにもかかわらず、私はひと月も寝込んでしまった。体力の差なのだろう。

   だから――。
   母上も父上も家の者達も誰もが、今は私とロイを離そうとしているのだろう。その事情はよく解るが――。
   だがロイが、哀れに思えてならない。


[2010.11.11]