25.初任務



「ロートリンゲン卿。大変なことが起こった」
   軍務局長官のキース卿がノックと共に声をかけてくる。何が生じたのかと顔を上げると、キース卿はカルナップ大将から今し方連絡が入ったところだ――と切り出した。
「演習中の艦内でインフルエンザの集団感染が起こった。乗組員全員が発症したらしい。先程、乗組員名簿が送られたきたのだが、そのなかには卿の御子息の名前もあった」
「……ハインリヒの名前が……?」
「どうやら感染が広がった艦というのが、御子息の搭乗していた艦のようだ。今はジェノヴァ港に寄港して、全員を軍病院に搬送したところらしい。なかには重症者も出ているそうだ」
   ハインリヒが演習中にインフルエンザに罹った……?
   しかも艦内全員に感染しただと?
「……感染力が強すぎるではないか」
「ああ。だからもしかしたら新型のインフルエンザではないかと疑われているようだ。今は病院で隔離しているらしい。重症者についての情報はまだ送られていないが……。この報せも今届いたばかりなのだが、卿には先に報せておいたほうが良いかと思ったんだ」
「ありがとう。おそらく大丈夫だろうとは思うが……」
「御子息のことも気になろうが、実は問題はそれだけで終わりそうにないんだ」
   キース卿はこの部屋には私とキース卿の二人しか居ないのに、声を潜めて言った。カルナップ大将の責任問題となるかもしれない――と。
「演習中の士官学校6年生および7年生の学生達全員、予防接種を受けていなかったそうだ。それで感染が拡大したらしい」
「予防接種を受けていない……? しかし、この時期には感染拡大を防ぐために士官学校生は必ず接種をするように定められているではないか」
「演習先から帰ってからという予定になっていたようだ」
「……判断ミスか」
「おまけにこれだけの被害を出してしまったからな。おそらく航海後すぐに感染して、徐々に広がっていったのだろう」

   その時、電話が鳴った。受話器を取り上げて応答すると、カルナップ大将だった。キース卿から既に話を聞いていたが、黙って彼の話を聞いていると、彼はハインリヒの搭乗している艦内で集団感染が発生したと言った。
「……息子の状態を伺っても宜しいか?」
「重症ではないと聞いております。ただ熱が高く、今はジェノヴァの軍病院で処置を受けていると報告を受けています」
「では軍病院にこのまま入院を……?」
「それがジェノヴァ軍病院は病床数が少ないことから、乗組員全員の入院は難しいのです。幸い、たった今、インフルエンザは新型ではないことが判明しました。ですから、重症者以外の学生は自宅での療養を求めるつもりです。ですが、ロートリンゲン大将の御屋敷にはお身体の弱い御子息がいらっしゃると聞いております。病室を一室ぐらいなら此方で確保しますが、如何なさいますか……?」
   重症ではないと聞いて胸を撫で下ろした。だが、カルナップ大将の指摘通り、ハインリヒを邸に連れ帰ることは難しい。万が一にもフェルディナントにうつったら――、大変なことになる。
「解りました。では息子は帝都に連れ帰ります。搬送の用意を整えてから、また連絡しますので……」
   ジェノヴァの軍病院が狭いことは知っている。ハインリヒは重症ではないのなら、其処から去らせて病床数を増やした方が良いだろう。邸に連絡をいれて、トーレス医師と連絡を取ってもらい、第7病院への入院手続きを進めなければ――。
「ロートリンゲン卿。御子息の容態は?」
「幸い重症ではないようだ。インフルエンザも新型ではないらしい。今から家に連絡をいれて、帝都に連れ帰ってもらうことにする」
   キース卿は安堵した――と言ってから、この執務室を去っていった。
   彼の背を見送ってから、邸に連絡をいれる。フリッツが応答した。
「フリッツ。ハインリヒが演習中にインフルエンザに罹った。今はジェノヴァの軍病院に居るが、第7病院に搬送したい。トーレス医師に連絡を取ってもらえるか?」
   フリッツはハインリヒ様が?と驚いた様子で問い返した。フェルディナントと違い、ハインリヒは丈夫だからフリッツが驚くのも無理の無いことだった。
「集団感染だそうだ。艦内全員が感染しているらしい。熱が高いらしいが、重症ではないのが幸いだ」
   フリッツは驚きつつも、すぐに手配します――と応えた。電話が切れる。
   重症ではないのが幸い――とはいえ、あの丈夫なハインリヒが感染するとは。演習中の疲労もあったのだろうか。

   気を落ち着けながら書類に眼を落としたところへ、携帯電話が鳴る。ユリアからだった。ユリアは今日、美術展の式典に参加していた。おそらく式典の最中に、フリッツから報せを受けたのだろう。電話を取ると、ユリアはフリッツから話を聞いたことを告げた。
「重症ではないそうだ。ただ熱が高いというから、暫く養生が必要になる。フリッツに第7病院への入院手続きを取ってもらっているところだ」
「解りました。私もすぐ帰宅します。それからジェノヴァに向かいますから……」
「いや、ハインリヒが此方に戻って来てから病院に行ってくれ。救急車の手配がつき次第、ただちに此方に搬送してもらうから」
   それから30分程経った時、フリッツから連絡が届いた。トーレス医師がすぐに入院の手続きを進めてくれたという。これから救急車が今からジェノヴァの病院に向かうとのことだった。
「そうか。では後を頼む。病院に到着したら、私も様子を見に行く。それからフェルディナントはどんなにせがんでも病院に連れていくな。感染したらそれこそ大変なことになる」


[2010.11.10]