この日、帰宅すると、ハインリヒは朝以上に元気が無かった。
ユリアにそのことを尋ねたところ、虫歯は二本とも無事、抜いてもらったらしい。
「ただ、麻酔が強かったみたいで、まだうとうとしているの」
「麻酔が強い? 朝、治療を受けてまだ麻酔が切れないのか?」
「……ロイが嫌がって、結局、治療を受けたのは昼頃になってしまったこともあるのだけど……。少し薬が効きすぎたみたいで……」
「医師は何と?」
「今日中には完全に薬が切れると仰っていたけど……。帰宅してからもずっと眠っていたし、まだ茫としているような状態なの」
普段は薬さえも飲まないから、麻酔が効きすぎてしまったのだろうか。
ハインリヒはあまり喋ることもなく、茫とソファに座っていた。夕食の際も眠そうに眼を擦っていた。
そして、今、ソファに座っていたハインリヒがこくりこくりと船を漕ぎ始める。先程、ユリアが起こしてからもう二度目だ――。
「ハインリヒ。部屋で休みなさい」
子供達の就寝時間は9時で、今はまだそれより一時間早い。だが、ハインリヒはまだ薬が切れていないようで、終始茫として眠りかけることが多かった。
「ハインリヒ」
もう一度呼び掛けると、ハインリヒは頷きながら、ソファに横たわる。これはもう相当眠いのだろう。
「ロイ、起きてお部屋に行きましょう」
うん、と言葉だけは返すものの、ハインリヒはすやすやと眠り始める。ハインリヒを部屋へ連れて行こうとしたユリアを制し、私がハインリヒを抱いて部屋まで連れて行った。ハインリヒはぐっすり眠っていた。
「この状態が続くようなら心配だな。いくら何でも薬が効きすぎる」
「一応、夕方にお医者様には聞いてみたのだけど、とりあえず今日一日は様子を見た方が良いって……」
ロイ、大丈夫なの――と、リビングルームに居たフェルディナントが問い掛ける。大丈夫よ、とユリアが応えた。
午後九時になるまで、フェルディナントはいつも通り、私達の側で本を読んだり、話しかけたりしていた。
ユリアと私も11時になってから、寝室に向かった。
この日は早々に二人でベッドに入ったが――。
ベッドのなかで微睡んでいると、かたんかたんと物音が聞こえてきた。この階にはフェルディナントとハインリヒしか居ないから、二人のうちのどちらかが手洗いに起きたのだろうと思っていた。
ところが、かたんかたんという物音は何度と無く聞こえて来る。ごとんと物を落とすような音だったり、ずずっと引き摺るような物音だったり――。
そっとベッドから起き上がると、隣で眠っていたユリアが、どうしたの――と声をかけてきた。
「廊下で物音がする」
「え?」
ユリアはさっと起き上がる。かたっ、ごとんとまだ音が聞こえる。
「お前は此処に居ろ。私が様子を見て来る」
ベッド脇の棚には常に銃を忍ばせてある。それを手にして、安全装置を解除し、扉へと向かう。かたんかたんと音が廊下から聞こえて来る。
そっと扉を開け、隙間から廊下の奥を見る。大きな窓が其処にある。侵入するなら其処からだと考えていたが、何も異常は無い。
反対側に視線を転じる。フェルディナントやハインリヒの部屋にも何も異常は無い。音は何処から聞こえて来る?
階段――?
かたん、かたんと聞こえる。
間違いない。階段に誰かが居る。
やはり、真夜中に何者かが忍び込んだのか――。
充分に気を配りながら、足音を忍ばせ、階段に向かう。かたんかたんという音が大きくなる。
「動くな!」
暗闇の中を蠢くものに銃口を向けて言い放つ。
蠢くもの――。
蠢く――小さな何か。
小さな?
「父上……?」
ひょっこりと姿を現したのはハインリヒだった。その手に玩具を持って――。
「……何をしているのだ!? こんな真夜中に……!?」
一階には使用人達の部屋がある。あまり大きな声を出してはならないと解ってはいたが、驚きの方がそれを勝った。
「玩具を部屋に持っていこうと思ったの」
ハインリヒは邪気のない顔で言う。
「この莫迦者……! 時間を考えなさい。今は真夜中だ」
「だって眠れなくて……。ルディに下で遊ぼうって誘ったんだけど、ルディ起きないし……」
「夜中の12時だぞ!? フェルディナントが起きないのも当然だ。まったく……」
その時、一階でぱたぱたと足音が聞こえて来た。フリッツ達を起こしてしまったのだろう。
「旦那様。どうかなさったのですか?」
ガウンを羽織ったフリッツが階段を上ろうとする。大丈夫だ――と彼を制し、起こしてしまったことを詫びた。
「フランツ?」
背後からユリアの声も聞こえてくる。母上――とハインリヒは明るい声を上げた。
「ロイ……? 何故そんなところに……」
「眠れなくて、玩具を取りに行っていたらしい。物音はそれを引き摺る音だ」
「ルディ、起きてくれないから……。一人で遊ぼうと思ったの」
「ロイ。夜は遊ぶ時間ではないのよ?」
「だって眠れないんだもの……」
拳銃の安全装置を再びセットして、ハインリヒに部屋に戻るよう促す。ハインリヒはこくりと頷いて、大きなレールの玩具を引きずり出した。かたんごとんと音がする。
「ほら、音を立てては駄目だ」
ハインリヒが重そうに引き摺りながら持っていた電車の模型を持ち上げる。
今日は麻酔のせいでずっと眠っていたというのに――。
ああ、そうか――。
麻酔がなかなか切れず、ずっとうつらうつらと眠っていたから、逆に夜になって眼が冴えてしまったのか――。
まったく人騒がせな子だ――。
ハインリヒを部屋に送り届け、安堵したのも束の間で、一時間もしないうちにハインリヒはユリアの部屋にやって来た。どうやらまったく眠気が無いらしい。何とか宥め賺してハインリヒを部屋で寝かしつけたが、三十分と経たないうちに、ハインリヒが再び部屋の扉を叩いた。
「フランツ。今日は貴方の部屋で休んで。この様子だと、ロイがルディの所に行きかねないから」
結局、この日も私の居場所をハインリヒに譲らねばならなかった。
一人きりの冷たいベッドに入りながら、ひとつ息を吐いた。時計の針は午前3時を示していた。
【End】