24.真夜中の一騒動



   ハインリヒは右頬に手を当てて、ぼろぼろと涙を流しながら、しゃくり上げていた。
「そんなに痛いのなら何故もっと早く言わなかった?」
   泣き声が聞こえる――と思っていると、フェルディナントがハインリヒを引き連れて、部屋にやって来た。何があったのかと思えば、歯が痛くて泣いているのだという。
   自業自得とはいえ、相当痛いのだろう。それに頬も少し腫れているようだ。

   思い返してみると、今日のハインリヒは元気が無かった。
   食欲も無かった筈だ。それにユリアが気にしていたように、随分大人しかったではないか。

   ユリアは薬を取ってきます――と言って、フェルディナントを促し、部屋を出て行った。尚も泣き続けるハインリヒを部屋に入れて、椅子に座らせたが、ハインリヒはまだ泣き止まなかった。
「だって……っ」
   泣きながら、ハインリヒは言葉を返しかける。しかしその言葉を飲み込んだようだった。
   何を言おうとしたのかは解る。察しがつく。
   歯医者が怖いのだと――。

   ハインリヒは虫歯になりやすい体質だった。フェルディナントは未だ一本の虫歯も無いのに対して、ハインリヒは昨年も虫歯で騒ぎを起こした。その時、すぐに歯医者に連れて行って、治療してもらったが、それが怖かったらしく、今でも苦手意識を持っているようだった。
「明日、歯医者に行って治療してきなさい」
   そう告げると、ハインリヒはますます泣き始めた。歯の痛みに相俟って、歯医者が嫌なのだろう。

   かちゃりと音がして、ユリアが部屋に戻ってくる。薬とタオル、それにジュースの入ったグラスを手に持っていた。そしてハインリヒの側に歩み寄って、ハインリヒが抑えている右頬にそっと濡らしたタオルを当てる。少し腫れているわね――と言った。
「前回よりも酷い状態のようだ」
「明日、診て貰いましょうね、ロイ」
   ユリアはハインリヒにそう言ってから、先にジュースを口にするよう促した。薬を飲む前に胃を保護させておくためだろう。ハインリヒはジュースを一口飲んで、痛いと言ってまた泣いた。
「もう少し飲まないと、お薬が効かないわよ」
   ハインリヒを宥めながら、ユリアは少しずつジュースを飲ませる。それから、錠剤を飲ませた。ハインリヒはまだぼろぼろと涙を流していた。
「暫く横になれば痛みは無くなるから、もう泣き止みなさい」
   ハインリヒは眼を擦ったが、涙が止まらないようだった。お部屋に行きましょうね――とユリアが促すと、ハインリヒは凝とユリアを見つめて言った。
「もう少し此処に居たら駄目……?」
   懇願するような眼でユリアと私を見る。

   子供達には子供達の部屋がある。幼い頃から、一人で眠ることを習慣付けていた。尤もフェルディナントがまだ小さい頃は、眠っている間に何かあってはいけないからとこの部屋にベビーベッドを置いて寝かせたものだが――。

「珍しいわね。心細いの?」
   ユリアが微笑みながら問い掛けると、ハインリヒはこくりと頷いた。駄目?と上目遣いに私達を見遣る。
   駄目――と言われても――。
   今日は早く帰宅出来たから、久々にユリアと……と考えていたのに――。
「良いわよ。今日は此処で休みなさい」
   ユリアはあっさりとそう応える。確かにこの状況で駄目だとは言えないが――。
   ユリアはちらりと此方を見て苦笑した。私の考えていることを察したのだろう。テーブルに置いてあったブランデーを飲み干して、先に休むことを告げる。ユリアと私の寝室は奥の扉で繋がっている。だから、部屋は分けてあるとはいえ、二人で休むことが多いのだが、この日はハインリヒに場所を譲らなければならなかった。

   翌朝、ハインリヒは薬のおかげで痛みはすっかり消えたようだった。ユリアは歯医者に予約をいれて、昼に診察を受ける手筈を整えた。これで一段落するだろう――と思っていたら。



「治療しなかった?」
   本部から帰宅して軍服から普段着に着替えながら、ハインリヒのことを問うと、ユリアは肩を竦めながら言った。
「ええ。明日、治療することになったの」
「……何故またそんなことに……」
「虫歯になっている場所が、歯と歯の間なのですって。それも削るだけの治療では治せないから、2本とも抜いてしまうことになったのよ」
「……ハインリヒの虫歯にも困ったものだな」
「ええ。もっと早く気付けば良かったのだけど……。ロイったら歯医者に行きたくないものだから、ずっと隠していたみたいよ」
「今日はすんなり歯医者に行ったのか?」
   問い掛けると、ユリアは苦笑しながら言った。
「愚図って大変でした。歯医者に行っても、もう痛くないと言い出して……」
「やれやれ……。困ったものだ。しかし医者もすぐに治してくれれば良いものを……」
   2本とも今日抜いてしまえば良かったのに――と呟くと、ユリアは本当はね――と前置いて言った。
「本当は今日、一本抜いて、また今度一本抜く予定だったのだけど、ロイが怖がって治療出来なかったの。それで明日、全身麻酔をかけて2本とも抜いてしまうことになったのよ」
「……情けない……」
「怒らないであげてね」
   まったくハインリヒの歯医者嫌いにも困ったものだった。
   否、歯医者だけではない。ハインリヒは病院自体が嫌いで、単なる予防接種も酷く怖がる。
   フェルディナントと違い、風邪ひとつ引かないから病院とは無縁で、だから余計に怖がってしまうのかもしれないが。


   翌朝、ハインリヒは元気が無かった。今日こそ治療から逃げられないと解っているからだろう。それに今日は治療が終わる迄の間、何も食べることが出来ない。きちんと治してもらいなさい――そう言って、私は仕事に出掛けた。


[2010.9.26]