「失礼致します。閣下」
   扉を叩く音が聞こえて応えると、その言葉と共に扉が開いた。
「御苦労だったな。ヴァロワ中将」
   33歳の若い中将が敬礼の後に歩み寄って来る。彼は書類を差し出してから、此方でも騒動があったようですね――と言った。
「士官学校の演習艦でインフルエンザ騒動だ。将官の処分が下って、漸く一段落ついたところだ」
「カルナップ大将閣下が辞任なさると伺いました。随分厳しい処分が下ったのですね」
「乗員全員が罹患したことを考えると、致し方の無い処分でもあるのだが……。カルナップ大将は学校長の辞任と支部転属命令が下ったのだが、本人が辞職を申し出ているらしい。今、長官達と話をしているところだ」
「辞職……ですか……」
「陸軍長官も海軍長官も彼を引き止めていることだろう。……どうやらフォン・シェリング大将は支援の手を差し伸べなかったようだ。私としては意外だったが」
「……カルナップ大将はフォン・シェリング派でしたか」
   ヴァロワ中将は軽く驚いた様子で言った。陸軍のなかでも抜きんでて戦略や用兵に長けているのに、こういう情報にはまるで疎い。もっと上手く立ち回る男だったら、疾うに大将となっているだろうに。
「彼が学校長に就任出来たのは、今は亡きフォン・シェリング元帥の支援があったからだ」
「そうでしたか……。派閥色の薄い方だと思っていたのですが……」
「フォン・シェリング派だが、他人を陥れる人物ではないことは確かだ。まああまり、主義主張を述べる方でもないがな」
   フォン・シェリング家に男児が誕生した翌年に、カルナップ大将が学校長となった。そんな時期だから、フォン・シェリング家は男児を士官学校の幼年コースに入学させるために、画策したのだという噂が立っていた。
「……今回、支援の手が無かったということは、フォン・シェリング大将とは良好な関係には無かったということでしょうか」
「あまりそういう話は聞いたことが無いのだがな。……手を切ったことの方が意外に思える。フォン・シェリング家の長男はそろそろ士官学校の受験資格を得る年だろう。まあ単に自信があるのかもしれんが」
「幼年コースといえば……。閣下の御子息が此方にいらしたと伺いました。大将級会議で状況説明をなさったとか。私は知らなかったのですが、来年には軍に入省なさるそうですね。御二男ですか?」
「ああ。次男だ。留年しない限りは、来年、入省予定だ。陸軍か海軍かは解らんが……。君に引き合わせたかったが、急な話でな」
「同じ軍にいれば、いつかは顔を合わせることもあるでしょう」
「そうだな。……ところで其方の会議はどうだった? 上手くいったとは電話で聞いたが……」
「ええ。新トルコ王国のマームーン大将閣下のおかげで、何とか乗り切りました」
「マームーン大将の?」

   ここ数年、帝国はアジア連邦と確執がある。今回の会議の言動によっては、軍事衝突ともなりかねない。慎重に事を運ばねばならないのに、この件の担当には好戦的なフォン・シェリング大将の派の者が居て、どうしても彼を押さえ込まねばならなかった。そのため、私が会議に参加する予定だったのだが、国内での会議が積み重なっており、参加することが出来なかった。
   そこで、参謀本部の人間ではないが、軍務局のヴァロワ中将を一時的に参謀本部に借り受け、彼に任せておいたのだった。
   彼ならば、無益な衝突を避けてくれるだろう。そう考えてのことだったが、其処に何故、新トルコ王国のマームーン大将の名が出て来たのか。

「新トルコ王国はアジア連邦とも帝国とも交流の深い国ですから、衝突を避けたかったのでしょう。尤も今回の新トルコ王国の会議担当者がマームーン大将閣下でしたからこそ、そのように判断して頂けたのでしょうが……」
「……君の話から察するに、危機的状況に陥りそうになったのだな?」
「はい。ブンゲルト大将閣下が不用意な発言をなさったので、越権行為とは解っていたのですが、発言を遮らせていただきました」
   状況は掴めた。やはりヴァロワ中将に任せて良かった。彼でなければ、その場で穏便に事を済ませることは出来なかっただろう。
「御苦労だった。きっと帰りの機内で散々嫌味を言われたのだろう?」
「慣れていますから」
   けろりと応えるこの中将を、出来れば参謀本部に異動させたかった。あと数年、出会うのが早ければ、それが可能だった。そうすれば、私の退職と同時に彼を本部長に推すことが出来た――。
   尤も簡単なことではあるまい。今でさえ、彼を異動させることは難しい。私との関係に鼻を利かせたフォン・シェリング大将が事あるごとに邪魔をしてくる。強引に彼を異動させることも出来るが、そうすればフォン・シェリング家との確執は決定的なものとなる。
   ――否、既に決定的となっているか。
   それに――。

   出来れば、この男は参謀本部長という枠にはめるよりも、長官にさせた方が良い。これからの帝国を担うのは彼のような人材だ。このまま順調に昇級させて、軍務局司令官を経て、軍務長官に――その方が良い。

「ところで、マームーン大将とは顔見知りだったのか?」
「会議で何度か顔を合わせたことがありまして。時々、挨拶を交わす程度です。閣下のことを尋ねられました」
「私も彼とは会議でよく顔を合わせるんだ。なかなかのやり手だよ。部下からの信頼も厚いと聞いている。それに彼とは趣味があってな」
   マームーン大将とは、会議のために新トルコ王国に出向いた時、骨董店でばったり出会い、話をしたこともある。面白い人物で、会議で会うたび、立ち話をした。一度は一緒に食事をしたこともある。
「しかし、君とマームーン大将のおかげで一戦を回避出来たようなものだ。今回は本当に御苦労だった」
   ヴァロワ中将は敬礼と共に部屋を去っていく。それから、彼によって書かれた報告書に眼を通した。有能な人間だというのが、その報告書からもよく解る。其処に署名を施そうとした時、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。
「閣下。カルナップ大将がお見えになっています。お通しして構いませんか?」
「カルナップ大将が……? 解った」
   フォイルナー中将が部屋を出てすぐに、カルナップ大将が姿を現した。彼がこの部屋に来るとはどうしたのだろう――。
「失礼します。ロートリンゲン大将」
   学校長の辞任という処分を受けて、酷く沈んでいるだろうと思っていたのに、カルナップ大将は妙に晴れ晴れとした顔で部屋に入ってきた。
「どうぞ。此方へ」
   部屋の片隅にあるソファを勧める。カルナップ大将は目礼して其処に腰を下ろした。
「先程、両長官に辞職願を提出して参りました。閣下にはその御挨拶を」
「……辞職なさったのか……」
「今回の事態の責任を取るうえで、それが筋かと思います」
「まだ退職まで間があるでしょう。支部転属となっても軍に残った方が良いのでは……」
   辞職までの必要は無いと思っていた。長官も私と同じ意向だった。降格を訴える声があったのを退けたのもそのためだった。
「……軍に残れば、私はまたフォン・シェリング大将の駒として動かねばならなくなる。そのことに嫌気を覚えたのも事実です」
「カルナップ大将……?」

   先程のヴァロワ中将との会話ではないが――。
   フォン・シェリング大将と折り合いが悪くなったのだろうか。カルナップ大将はあまり争いを好む方でもないのに――。


[2010.11.27]