「そうか……。ではフェルディナントのことはとりあえず一安心した」
   フランツが邸に連れ帰ったフェルディナントは、未だ高熱が続いているものの、命に別状は無いとのことだった。すりむいたような傷はあるらしいが、幸いにして怪我はその程度だったらしい。
   それを聞いて、ほっと胸を撫で下ろした。赤子の頃からよく知っている子だから、誘拐と聞いた時には背筋がぞっとしたものだが――。
「ラードルフ様にも御高配頂き、本当にありがとうございました」
   ユリアは丁寧に礼を述べる。だがその礼を受け入れる訳にはいかなかった。
「いや……。結局、私は何も出来なかった。フランツが独断でトニトゥルス隊を動かしたからこそ、こんなに早期に救出出来た。長官級会議にフォン・シェリング元帥まで出て来たから、正攻法で迫っていてはこんな早期に救出出来なかっただろう」
「……主人はどうなるのでしょう……? 昨晩からまったく連絡が取れなくて……」
「軍法会議が明日、執り行われるそうだ。フランツの処分は軍法会議で決定されることになる。そして処分決定までの間は、軍務局が預かることになる。その間、外部との連絡は一切絶たれるから……。実は私も面会を申し出たのだが、規則の壁に直面して叶わなかった」
   ユリアは沈痛な面持ちで俯いた。やつれたように見えるのは、ずっとフェルディナントのことを心配していたからだろう。側に控えていたフリッツが、ラードルフ様、と呼び掛ける。
「では明日になれば、旦那様は御帰りに……?」
「軍法会議が長引かなければな。だが……、降格人事となるのは避けられまい。私としてはフォン・シェリング家が動いたことが気にかかる。これを機にフランツを退けようとしているのではないか、とな」
「辞職を求められるということですか……?」
   ユリアが問う。そうあってほしくないが、それを否定することも出来なかった。
「フォン・シェリング元帥にとってフランツは眼の上の瘤だ。今の陸軍長官は此方の先代と縁があった方で、フランツのこともよく知っているから、彼は庇ってくれるだろうが、海軍長官はフォン・シェリング派だ。おまけに軍法会議に参加出来る今の大将級にはフォン・シェリング派が多い。だからどの程度の処分となるか、私もはかりきれない」
   ユリアとフリッツが黙り込む。
   ロートリンゲン家を訪れる前に、軍務省に行って長官とも話してきたが、陸軍長官もなかなか厳しい顔をしていた。フランツの功績を鑑みて、辞職だけは退けられたとしても、降格は免れないと彼も言っていた。

「母上!」
   扉が急に開く。ハインリヒだった。ノックもせず入室したことを、ユリアがすぐに注意する。ごめんなさい、とハインリヒは肩を竦めて謝り、それから私を見て、こんにちは――と言った。
「元気そうだな、ハインリヒ」
「お久しぶりです。ラードルフ小父上」
   ハインリヒは溌剌とした元気な子だった。あのような事件があったから、今はまだ学校を休んでいるのだろう。フェルディナントも寝込んでいるし、遊び相手が居なくてつまらなくなって此方に来たのだろう。
「ロイ。大事な話の最中だから、アガタの許に行っていなさい」
   ユリアが促すと、ハインリヒは此処に居ては駄目?と問い返す。
「ええ。とても大事な話をしているの。だから部屋で良い子にしていてね」
   ユリアは諭すようにハインリヒに告げる。ハインリヒは不満そうな表情を見せながらも、こくりと頷いた。
「ハインリヒ。フェルディナントの具合が良くなったら、二人で遊びにおいで」
   すると、ハインリヒの顔がぱあっと明るくなる。
「チロやドーラと遊んで良い?」
   我が家の二匹の愛犬の名前を出して、ハインリヒは身を乗り出す。そういえば、以前、家に来た時に楽しそうに戯れていた。
「勿論。チロもドーラも喜ぶ」
   ひとときの間、場を和ませてくれたハインリヒは、今度絶対遊びに行くね――と言って、部屋を去っていった。話の最中にすみません――とユリアは恐縮する。
「いや、子供は元気が何よりだよ。それに私達には子供が居ないから、二人が遊びに来ると妻が喜ぶ」
「ありがとうございます」
   ユリアは少し笑みを浮かべて言う。
   何かあったらすぐに連絡するように告げてから、ロートリンゲン家を後にした。





「陛下の軍隊を私用で、しかも許可無く動員するなど以ての外に御座います」
   フォン・シェリング元帥が謁見したいと、執務室までやって来たのが30分前のことだった。フランツが息子を救出するのにトニトゥルス隊を出動させたことについて、フォン・シェリング元帥は厳しい処罰を科すよう私に進言してきた。
「私用というが、フランツの息子が誘拐されたのはテロ未遂事件の犯人の釈放を求めてのことだ。事情が事情ゆえ、私用には当たらぬと私は考えている」
「陛下はお甘う御座います。ロートリンゲン大将は独断で帝国一の実力を誇る特殊部隊トニトゥルス隊を出動させました。長官の許可も無いままにです。これは軍の規律をも乱す重要な職権濫用行為です」
   フォン・シェリング元帥がロートリンゲン家を疎んでいることには知っていた。ロートリンゲン家の先代当主とフォン・シェリング元帥は、これほど険悪な仲ではなかったが、フランツが当主となってからはどうも両家の仲が上手くいっていない。やはり原因はフランツがフォン・シェリング元帥の長女との縁談を断ったからだろうか――。
「本日の軍法会議ではロートリンゲン大将に将官称号の剥奪と辞職を求めました。ところが、陸軍長官がこれに強固に反対したのです。陛下、何卒……」
   陸軍長官はフランツの味方だから、反対するのも尤もなことだ。それにフランツの許に一人将官が駆けつけたと聞いている。フランツの行為が軍法違反行為であり、自分にも処分が下ることを弁えながら、加わった。それはフランツが余程、信頼されているということではないか――。
「元帥。私は今回のフランツの行為が間違っているとは思わない」
「とんでもないことを仰せになりますな、陛下」
「先日、元帥は此処に来て言ったな? 私の命と臣下の子供の命を比べたら、私の命の方が大切だと。ではお前は私のために息子の命を差し出すことが出来るか?」
「……無論に御座います」
「ならば、私がお前に息子を殺害するよう告げたら、お前は息子を殺すのだな?」
「……それが陛下のお望みならば……」

   フォン・シェリング元帥の声が僅かに上ずる。では此処に息子を連れて来い――と告げると、明らかに元帥はたじろいだ。
「言葉では何とも言えるが、お前にもそのような覚悟は出来ておらぬではないか」
「陛下。それと今回の事件とではまるで違います」
「何が違うか! お前は先天性虚弱の子供を抱えておらぬから、フランツの苦悩が解らぬだけだ。フランツはこの三日間、気が気で無かったであろう。元帥、私は捕虜を釈放するよう命令を下そうとした時、お前は国家の大事となるといって諫めに来た。私はそれに譲歩したのだ。だが今回は譲歩はせぬ。フランツならびに行動を共にした将官に全責任を負わせるようなことは許さぬ」
「陛下……」
「これは皇帝命令だ。フランツを参謀本部に異動させろ。少数での犯人制圧は実に見事な功績に値する。フランツの能力こそ、我が軍に不可欠だ」
「陛下。それはなりません……! それでは火に油を注ぐようなものです……!」
「黙れ! 皇帝命令だというのが聞けぬか!」
   元帥は口を噤み、低頭する。尚も言い返そうと言葉を選んでいるようなのだった。

「ルートヴィヒ・フォン・シェリング。我が弟ヨーゼフがお前の二女のベアーテと結婚してから、何か勘違いをしているようだが、お前も私の臣下に過ぎぬ」
「滅相も御座いません。陛下……」
「加えて、家同士の争いを公の場に持ち込むとは何事だ」
「それは誤解に御座います。私はロートリンゲン家と手を取ろうとしているのに……」
「黙れ。お前が考えていることなどお見通しだ。フォン・シェリング家とロートリンゲン家が手を組めば、皇室に匹敵する財を為すことになる。お前は一度はそれを企てたのだろう。だがロートリンゲン家が拒んだ。家の対立は其処から始まっているのだろう」
「陛下……! それは誤解に御座います……! お気に障ることが御座いましたら、謝罪申し上げます。ですが……」
「見ていれば自ずと解ることだ。お前は私が子供の頃から、私がフランツと仲の良いことを疎んでいたからな。フランツはそのことに配慮して、私から離れていった。……お前が私から唯一の友を奪ったのだ。このうえさらに、フランツを遠ざけるとは、甚だ許し難い行為だ」
   フォン・シェリング元帥はそれ以上何も言わず、執務室を去っていった。秘書官の一人が気まずそうにその背を見遣る。

「アーベル。お前の仕えるべきは私か、それともフォン・シェリング元帥か」
問い掛けると、秘書官のアーベルはさっと顔色を変えた。これまでどうもフォン・シェリング元帥に話が伝わるのが早いと思っていたが、おそらく彼が逐一報告していたのだろう。
「陛下に御座います」
「ならば守秘義務を徹底させろ。この執務室での言動をフォン・シェリング元帥に漏らすな」
「は……」


[2010.8.17]