今は何時なんだろう。
此処に連れて来られてどのくらい時間が経ったのだろう。
喉がからからに渇いていた。水が飲みたい――。
水――。
何時間前に水を飲んだのだろう。
たった一度だけ――。
此処に来てから、一度だけ水を飲んだ。飲ませてもらった。女の人が、あまりに可哀想だからと、そっとやって来て水を呉れた。それ以来、あの女の人の姿を見ていない。
もしかしたら、また此処に来たのかもしれないけれど、何も憶えていない。
多分、ずっと眠っていたのだろう。頭が痛くて寒気もして、いつのまにか眠っていた。身体が熱いのに、寒気が止まらなくて、どうやら熱を出してしまったようだった。
苦しくて苦しくて――。
助けを呼んでも誰も来てくれなくて――。
誰も助けてくれない。
僕を此処に連れてきた人達が言っていた。水を呉れた女の人が、僕の眼を布で覆うように言った時、大柄な男が生かしておく気は無い――と言った。
『要求を飲んで引き渡しの時に、父親の眼の前で殺してやる。旧領主家の人間が、俺達を虫けらのように扱うのと同じようにな』
殺される――。
その時、恐怖に声が出なくなった。大柄な男は、せめて少しでも長く生きたいと思ったら、此処で大人しくしていろ、と言った。
此処に来てからのことはそれ以外、何も解らない。
寒い――。
喉が痛い。乾いた咳が出て、余計に喉が痛い。
母上、父上――。
声を殺して泣いた。
でも泣いても何も解決しない――と、解った。
此処にこのまま居ても、いずれ殺される。僕が此処に居ることは誰も解らない。
このままだと殺されてしまうか、死んでしまうかのどちらかで――。
自分で此処から逃げ出すしかない。
でもどうやって――?
逃げるには――。
両手と両足を縛っている紐をどうにかしないと――。
ビニール紐のようだから、刃物があれば切ることが出来る。刃物、何か鋭い物、何か――。
あ――。
部屋の片隅にゴミ箱がある。ゆっくりと這っていくと、ゴミ箱のなかに割れた瓶の破片があった。それを何とか取り出して、手首の紐を少しずつ切っていく。切れた。自由になった手で、急いで足の紐も切る。
眼の前がくらくらする。それに熱のせいで、手が震えていた。
今、此処に誰かが入って来たら――。
多分、僕はすぐに殺される。
焦れば焦るほど紐が切れなくて、手が震えて――。
焦っては駄目だと自分に言い聞かせながら、何とか紐を切り終える。
あとは――。
あの小窓に――。
立ち上がると、足がふらつく。側にあった箱を二つ重ねて踏み台にして、天井に近い窓に手を伸ばす。鍵が何とか開いて窓を開けられた。二つの腕の力だけで、窓に這い上がる。手が痺れてくる。身体がなかなか引き上がらない――。
早く――。
早く――。
足音が聞こえて来る。早くしないと、逃げ出そうとしたことに気付かれたら殺される――。
上半身を何とか這い上がらせる。頭を窓から出す。上半身が外に出たその時――。
「小僧! 何をしている!?」
扉が開いて、男の声が響いた。逃げるな――と足音が近付いて来る。
やっとの思いで足を引き上げて、窓から外に飛び出した。2メートルほどの高さがあったことも忘れ、飛び出た。
肩を強く打って地面で蹲った時、パンと銃声が聞こえた。その音に身体が竦んだ。
撃たれた……?
――でも、痛くない。
大丈夫、撃たれていない。大丈夫――。
早く逃げないと――。
早く――。
「フェルディナント!」
パンパン、と銃声がまた聞こえて来る。銃声が何度も聞こえるなか、父上の声が聞こえたような気がした。
父上――?
もしかして、助けに来てくれたのだろうか。
「フェルディナント!」
身体がふわりと持ち上がる。顔を上げた時、身近でまたパンパンパンと音が響いた。もうこの音は聞きたくないのに――。
「閣下、お下がり下さい!」
「済まないが、頼む!」
誰……?
聞いたことのある声と、父上の声が聞こえる。
父上が助けに来てくれた。安心して、何だか力が抜けていく。
「無事か? 良かった……!」
眼の前が暗くなる――。
「フェルディナント!? フェルディナント!」
腕の中のフェルディナントの身体が、だらりと力を失う。呼び掛けても返事が無い。
早く医師に見せなければ――。フェルディナントを救出出来たは良いが、蒼白い顔で、唇も乾ききっている。もしかして水さえも与えられなかったのではないか――。
フェルディナントを確りと抱き締め、辺りに気を配りながら、車へと向かう。ザカ中佐がずっと私を守ってくれていた。
車のなかに入り、常備してある水をフェルディナントの唇に注いでも、フェルディナントは飲もうとしない。飲み込めないようで、注いだ水は頬を伝って流れ落ちていく。側からザカ中佐が毛布を渡してくれた。それでフェルディナントの身体を包む。
「閣下。あとは隊員のみでこの場を鎮めます。閣下はフェルディナント様を病院にお連れになって下さい」
ザカ中佐は一足先にこの場から離脱するよう促した。しかしそれでは、この場に指揮官が不在となってしまう。
「いや……。そういう訳にはいかない」
「フェルディナント様は酷く衰弱なさっています。このままではお命が危ない。この場は必ず抑えますから……」
「ザカ中佐。頼む。君がフェルディナントを邸に……」
「閣下。この場はお任せ下さい」
不意に車の外から聞こえて来た声に驚いて眼を見張った。
アントン中将が拳銃を手に立っていた。
「何故……、此処に……」
「閣下が単独行動なさるという話を聞きましてな。居ても立ってもいられず、こうして参った次第です。ザカ中佐、私達も突入するぞ。一人も逃してはならん」
「はっ」
私に言い返す間も与えず、アントン中将はザカ中将を促して、施設のなかへ入っていく。
腕の中のフェルディナントは高熱を出し、荒い息を吐いていた。毛布で包んでも震えが止まらない。
窓から落ちたフェルディナントを抱き締めた時、フェルディナントは頼りなげな視線で此方を見上げていたが、それ以後、まったく眼を開けていない。
フェルディナント一人をこの場に残しておく訳にはいかない――。
胸元から携帯電話を取り出す。邸に連絡をいれると、フリッツがすぐに応答してくれた。
「フリッツ。今からフェルディナントを連れて帰る。トーレス医師をすぐに呼んでくれ」
フェルディナントの状態を伝えてから、後部座席に寝かせて、運転席へと移る。車のエンジンをかけ、アクセルを踏み込む。
邸に一度戻り、すぐに此方に戻って来よう――そう決心して、まずは邸に急いだ。