「珍しいな。フランツ。どうした?」
   宮殿の奥に行き、皇帝の執務室に向かった。皇帝の執務室に公然と足を踏み入れることが出来るのは、宰相と長官級の者だけで本来なら憚られるべき行為ではあったが、旧領主層という立場を利用して入室を許可してもらった。
「越権を承知で、陛下にお願いが御座います」
   それを聞いた秘書官の一人が、ロートリンゲン大将、お引き取りを、と無情な声で言った。皇帝は彼を制し、どうした、と私に問い掛ける。
「畏れながら……、昨日、私の息子が……、長男のフェルディナントが誘拐されました。同日、軍務局に犯人からの電話が入りまして、先月のテロ未遂犯の釈放と逃走ルートの確保、資金として一万ターラーを要求してきました。すぐに長官に伝え、長官級会議を開いてもらい、一時的にでも犯人の要求を飲んでほしいと訴えましたが、半数の長官が異議を唱え、事態は膠着したままなのです」
「誘拐……? そのようなことがあったのか……?」
「はい。一将官の身で、陛下にこのようなことをお願いするのは越権行為であることは承知しております。ですがどうか、犯人の釈放をお認め下さい。後程必ず、纏めて身柄を拘束します」
「ロートリンゲン大将。越権行為ですぞ」
「構わん。少し控えていろ。……フランツ」
   秘書官に言い放ってから、皇帝は此方を見つめて言った。
「お前の長男は確かフアナと同じ先天性虚弱ではなかったか……?」
「はい。このところ調子が良かったので、ひと月に一度だけ外出を許していましたが、そんな折にこのような事態となってしまったのです。陛下、息子はこれ以上事態が長引くと命に危険を及ぼします。どうか……」
「そうだな。浄化された大気の中でないとフアナも体調を崩す……。長官達もお前の長男が虚弱だということは知っているのか?」
「はい。会議の場で訴えました。……ですが……」
「テロ未遂犯の釈放の方が一大事だということか……」
   皇帝は暫く考え込んだ。その間、ただ凝とこの場に跪いて返答を待った。
   皇帝なら――、この気持が解ってもらえると思った。同じような体質の子を持つ親だ。きっと解ってもらえる――。

「解った。子供の命には変えられない。長官達は私が説得しよう。司法省長官を通じて釈放の命令を下す」
   良かった――。
   これでフェルディナントを救出出来る――。
「ありがとうございます、陛下」



   だが、安堵は長くは続かなかった。
   陸軍長官を通じて、犯人の釈放を許可する報せが下りる筈なのに、いつまで経っても許可が下りてこない。この日2回目の長官級会議が終わってから、陸軍長官の許に行き、そのことを尋ねた。陛下の許に直接出向いたのか――と、長官は苦言を漏らして言った。
「そのような許可は降りていない。司法省と内務省が激しく反対している状態だ。……それに」
   長官は声を潜めて、海軍長官が反対に回るかもしれない――と告げた。
「海軍長官が……? 何故、今になって……」
「今日の会議に、君は出席出来なかったが、フォン・シェリング元帥が現れたんだ。臣下の子供一人の命と陛下の命、重きは陛下の命――つまりは国内の安全だと言い張って……」
「フォン・シェリング元帥が動いたのですか……」
「海軍長官はフォン・シェリング元帥一辺倒の人間だということを君も知っているだろう。私は最後まで釈放を求めるが、この状況だと他省の支持を得るのは難しい。……いや、司法省と内務省以外の省は支持に回ってくれたのだが、この二つの省はフォン・シェリング元帥が出て来たことで、強い支援者が出て来たと喜んでいるだろう」

   皇帝はあの時、確かに命令を下すと言ってくれた。
   皇帝は自尊心の高い方ではあるが、嘘を吐く方ではない。約束は必ず守ってくれる。
   だが、こうして約束が守られていないということは――。

   もしかして、フォン・シェリング元帥が皇帝に働きかけたのか。それで皇帝も意見を変えざるを得なかったのか。

「そう……ですか……」
「落胆するな。必ず他に手立てがある」



   フォン・シェリング家はどうあっても、ロートリンゲン家と対立したいのだろう。思い起こしてみれば、フォン・シェリング家との縁談を断った時から、諍いが絶えなかった。
   父の代の時のように、フォン・シェリング家と手を取り合うことは、もう私には出来ない。フォン・シェリング家に今回の事件の根回しを頼んだとて、その後に彼が望むことが、ロートリンゲン家にとって良いことではない。
   私はこれでも決定的な対立を避けてきた。ロートリンゲン家もフォン・シェリング家も軍では大きな影響力を持っている。その二つの家が対立するとなると、それは単なる家の対立で済まなくなる。軍内部にも対立構造が浮かび上がることになる。
   だが――。
   此処までくると、それも仕方がない――。



   私に残された手段は、ひとつしかなかった。
   責任は私が取れば良い。私が勝手に行ったことならば、部下にも迷惑はかからない。大将命令下でのことならば、佐官達に拒否権は無いのだから――。

「カーティス大佐。特務派のなかでも特に腕の立つ隊員を20名集めてくれ」
「はっ」
   執務室にカーティス大佐を呼び寄せ、特務派隊員の召集を命じる。彼が隊員の状態を確認してを戻って来るまで10分とかからなかった。
「アドリオン大佐、ビショフ大佐、クラーマー大佐、ザカ中佐、ベルモン中佐、ブルノー中佐、バルベリーニ中佐、カルディ中佐、バルト少佐、ベルムード少佐……」
   カーティス大佐はすらすらと名前を呼び上げる。いずれも特務派のなかでも抜きん出て強い者達だった。
「以上20名、確認を取りましたところ、いつでも出動出来るとのことです」
「では明日0500、特務派第5駐屯地に集合。大将命令だと伝えてくれ」
「大将命令……でございますか?」
「ああ。それについては明日、説明する。大将命令権が発動していることだけを伝えておいてくれ」
「了解しました」
   大佐が敬礼をして執務室を去っていく。
   これから作戦を練らなければならない。その前に、犯人が根城としているのであろう元産廃処理施設の構造を把握しておきたいが、ザカ中佐はまだ設計図を手に入れられないのだろうか――。

   そう考えていたところへ、ザカ中佐が現れる。今、内務省から設計図が届きました――とザカ中佐は紙を広げた。
「ありがとう。大分苦労したようだな」
「産廃処理施設の所有者がなかなか判明しなくて、内務省が手間取ったようです。その間に他の4ヶ所についてもう一度調べてみたところ、いずれも民家であることが判明しました。一応、家の所有者に関する情報は此方に」
   4ヶ所とも民家となると、敵が多勢であることを考えれば、根城にはしないだろう。それに逃走ルートを考慮しても、やはり元産廃処理施設であるという場所が一番怪しい。
   設計図を見ると、その場所が大分広いことに気付いた。地下室もあるようだから、もしかしたらフェルディナントは其処に監禁されているのかもしれない。
「明日の件は聞いたな?」
「はい。閣下、陸軍長官には……?」
「私が全責任を取る。君達は私の命令に従ってくれるだけで良い」
   ザカ中佐は此方を見つめ、心配げな表情を見せた。
「それでは……、閣下のお立場が危うくなりませんか……?」
「これしか方法が無い。君達を巻き込むことになるが、大将命令であれば君達に責任は回って来ない」
「閣下……」

   将官の称号を失うことも、制服を脱ぐことすらも全て覚悟の上だった。このまま上の指示に従って、何も動けないよりはその方が良い。
   フェルディナントを失うことよりも、今の立場を失った方が余程良い――。

   この日は自宅に戻る振りをして、特務派の第5駐屯地へと向かった。第5駐屯地から犯人の根城までは15分程で到着出来る。本部に留まっていたカーティス大佐やザカ中佐も時を見計らって、第5駐屯地にやって来た。


[2010.8.14]