「閣下! 閣下!」
   慌ただしく執務室の扉が開いて書類から顔を上げる。顔面蒼白の少将にどうした――と問い掛けると、少将はすぐ此方にいらして下さい、と言った。
「何かあったのか?」
「御子息を誘拐したとの電話が軍務局に入っています」
   誘拐――?
「莫迦な……」
「事の真偽はわかりません。兎に角、閣下を電話に出すよう、犯人が要求しています」
   すぐに立ち上がり、軍務局へと急ぐ。局内は電話を取り巻いて騒然としていた。
「閣下。どうか気を落ち着けて対応なさって下さい。どうも狂言とも思えません」
   電話を取ろうとすると、側に居た中将が注意を促した。解った――と告げて、息を吸い込んでから受話器を取る。

「フランツ・ヨーゼフ・ロートリンゲンだ。息子を誘拐したというのは事実か」
   ざざー、ざざっと随分、雑音が多い。何処から電話をかけているのだろう。
「信じられないかもしれないが、事実だ。息子は今、私の隣に居る」
「声を聞かせろ」
   狂言だと信じたい。それに息子といっても、フェルディナントとハインリヒ、二人居る。どちらが誘拐されたのか。
   ハインリヒが学校で誘拐されたのか――。
   いや、フェルディナントということも考えられる。今日は図書館へ行くと言っていた。
   だが、フェルディナントには護衛が居る。ハインリヒも学校を一歩外に出たら、護衛が付く。
   そう容易くは誘拐されない筈――。

「父上……!」
   受話器から声が聞こえた。
   フェルディナントの声が――。
「聞こえたか? 今のところ、息子には危害を加えていない。今から此方の要求を伝える。要求に応じなければ、息子を殺す」
   フェルディナント――。
   よりにもよってフェルディナントが――。
「待て……! その子は身体の弱い子だ。丁重に扱ってくれ」
   咄嗟に告げると、受話器から笑い声が聞こえて来た。

   ――丁重に扱え、だと?
   ――流石は旧領主様の発言だ。このような事態でそんな戯れ言を。

   犯人は複数居るのか。それも三人四人ではない――。
男は要求を述べ始めた。
   昨年、テロ未遂事件を起こし、国家反逆罪で捕まった囚人達の解放と自分達の逃亡ルートの確保、それに資金として1万ターラーを求めてきた。
「10日待ってやる。準備が出来たら、この番号に連絡をしろ。……あと、忠告しておくが、妙な真似をしたら息子の命は無い」
   通話が切れる。
   フェルディナントが誘拐された――。
「閣下……」
「狂言誘拐ではない……。本当の誘拐だ……。長男を誘拐された……」
   頭のなかが真っ白になる。
   今年に入ってから漸くフェルディナントを外出させるようになったばかりだった。去年、筋萎縮の病気を患い、それが癒えてからユリアと考えた末に少しずつ外に出すことにした。
   それがまさか仇になるとは――。

「閣下。御自宅から御連絡は……?」
「何の連絡も来ていない。……直接此方に連絡してきたのだろう」
   落胆ばかりでは何も解決出来ない。どうすべきか、考えなければ――。
   考えなければ――。

   そうだ――。
   ハインリヒ――。
   ハインリヒを学校から帰宅させなければ。犯人達がハインリヒを狙わないとも限らない。そして邸には非常警備体制を敷いて――。
「……アルベルト中将、司法長官に事の次第を説明してきてくれるか?」
「はっ」
「私は長官に特務派を動かす許可を貰ってくる。それから、犯人から連絡があったらすぐ私に報せてくれ」
   ゲーベル少将に告げて、軍務局を後にする。長官の執務室に向かい、扉を開け、敬礼して長官の前に立つ。
「どうした? ロートリンゲン大将」
「息子が誘拐されました。今、軍務局を通じて犯人から連絡が入り、息子を人質に取ったこと、先月のテロ未遂事件の犯人達の釈放と逃走ルートならびに資金の確保を条件に、息子を解放するとの声明がありました」
   長官は私を見つめ、黙り込んだ。
「誘拐されたのは長男のフェルディナントです。今日は図書館に行くと言っていたので、その時に誘拐されたのでしょう。外出の時には必ず護衛を伴わせています。それにも関わらず誘拐された……。犯人は周到に計画を組んで、おまけに腕の立つ者だと考えられます。長官、特務隊動員の許可を下さい」
「特務隊を率いて、乗り込むつもりか」
「いいえ……。そうしたいのは山々ですが、まだ犯人の根城も解りません。それに私にはもう一人息子がいます。今は学校に居る時間です。邸の者から何も連絡は無いことからも、まだ誰も知らないのでしょう。まずは息子を自宅に帰し、邸内の警備強化を行います。その護衛に特務隊のなかから数名を動員したいのです」
「そういうことなら解った。動員を許可しよう」
「ありがとうございます」
   長官の執務室を後にして、すぐさま軍務局に戻り、特務派の大佐と中佐を召集する。彼等が此方に来るまでの間、邸に連絡をいれることにした。ユリアやフリッツ達に外に出ないように言っておかなければならない。
二回程電話を鳴らしたところへ、フリッツの声が聞こえた。
「フリッツ。其方に変わったことは無いか?」
   気を落ち着けながら、まずそのことを問い掛けると、フリッツはフェルディナント様がまだお帰りになっていないのです――と言った。
「ホルガーやゴードンから連絡は?」
「先程から二度、電話をかけたのですが、どちらも出られなくて……。図書館に問い合わせたところ、もう疾うに退館したと言うのですが……。奥様が心配なさっているので、今から周辺を探してみようと思っていたところです」
「外に出るな。良いか、フリッツ。ユリアや邸の者達にも徹底させろ。今、外出をしている者にはすぐ邸に戻ってくるように伝えてくれ。それから邸の警備システムを強化。これから私はハインリヒを学校に迎えに行って、其方に戻る」
「旦那様……? 何かあったのですか……?」
「落ち着いて聞いてくれ。フェルディナントが誘拐された。軍務局に犯人からの連絡が入ったんだ」
「フェルディナント様が……!?」
「30分程で其方に戻る。良いな? 絶対に外に出るな。それからハインリヒの学校に連絡をして、早退させる旨を伝えてくれ」
   フリッツにきつく言い渡してから、電話を切る。閣下、と少将が私の許にやって来て、特務派の隊員が来たことを告げた。


[2010.8.11]