23.誘拐事件



   空は高く蒼く、白い雲がすうっと伸びている。けれど、空の蒼さはマルセイユで見る空の方がもっと深い蒼のような、そんな気がする。
「フェルディナント様。空ばかり御覧になって歩いていると、転びますよ」
   隣を歩くホルガーに注意される。図書館を出て、車に向かうまでの短い距離でのことだった。笑って頷くと、ホルガーは微笑み返してくれる。
   ホルガーは外出時の護衛だった。父上と同じぐらい背の高い男で、身体付きもがっちりと逞しい。でもとても優しく、穏やかな人だった。

   最近、ひと月に一度はこうして外出しても良いことになった。外出先は大抵が図書館とか博物館だった。母と一緒に出掛けることもあったが、もう12歳ということで、今日のように一人で出掛けることもある。そしていつも万一の時のために、ホルガーが一緒に付いて来てくれる。
「さあ、フェルディナント様。お車に」
   借りてきた本を持って車に乗り込む。運転手のゴードンが一杯借りてきましたか、と微笑みながら尋ねて来た。
「うん。ずっと借りたかった本を借りてきたよ」
「フェルディナント様は勉強熱心な方だ。お父上に劣らぬ立派な方となられるでしょう」
「父上もよく図書館に行っていたの?」
「そうですなあ……。お父上の場合、どちらかといえば美術館に通ってらっしゃいましたな」
   ゴードンはそう言って笑いながら、車を走らせる。帰ったら早速、本を読もうと思っていた。帝国の隣の国にあたる新トルコ王国の神話や伝説を纏めたこの本を、ずっと読んでみたかった。

   図書館を出て大通りに入り、小道に入ると、ゴードンはホルガーに呼び掛けた。
「一台、ずっと後を付けていますね。男5人の姿を確認しました」
「行きに見かけた車と違うんだ。……フェルディナント様。速度を少し上げますので、確りと掴まっていて下さい」
   ゴードンに言われ驚いていると、ホルガーが肩を抱き寄せる。次の瞬間には、車がぐっと加速した。
   小道からさらに小道に入る。その時、ホルガーがゴードン、と叫んだ。
   バリンとガラスが砕けるような音が聞こえる。ホルガーの腕のなかから顔を上げようとすると、伏せていて下さい、とホルガーは言った。
「ホルガー、次の角を曲がったら、速度を落とす。その時、フェルディナント様を抱いて外に飛び降りろ」
「……解りました。ホルガー、貴方も気を付けて」
   二人の会話がよく解らなかったが、どうやら何者かに狙われたらしい。フェルディナント様、とホルガーが此方を見て言った。
「確り掴まっていてください。宜しいですね?」
「ゴードンは……?」
「怪しい者達を撒いたら邸に戻ります。フェルディナント様はホルガーと共にお先にお帰り下さい」
   ゴードンはそう言ってから、ホルガーを促す。気のせいか、ゴードンの顔色が悪かった。
   ホルガーは確りとこの身体を抱き締める。そして、車のドアを開ける。
   ひゅっと風が側を過ぎったのと、ホルガーの身体に押しつけられるのを感じた。ホルガーはすぐに立ち上がる。僕を抱いたまま、邸に向けて走り始める。

   邸まであと少し――のところで、ホルガーは立ち止まって、この身体を下ろした。いつもの穏やかな表情は消えていた。険しい顔で、胸元から拳銃を取り出す。
「ホルガー……」
「私の後ろにお下がり下さい。それからフェルディナント様。この通りを真っ直ぐ走って……」
   前方に男の姿が見えたと同時に、何か軽い音が聞こえて、ホルガーの身体が前後に揺れた。ホルガーは歯を食いしばり、銃口を前方に向ける。パンパンと音が聞こえた。

   その激しい音に、身体が竦んだ――。
   ホルガーは前方に走っていき、次々と男達を倒していく。
   強い――。
   四人の男をホルガーは一気に倒した。残りあと一人、頑張れ――と心のなかで応援した時。

   誰かが、僕の身体を掴んだ。

「其処までだ」
   肩をがっちり掴まれて、身動きが取れない。ホルガーは此方を見て、顔を蒼白にした。
「その子を放せ……! さもないとこの男の命は無い」
   ホルガーは残る一人の男に銃口を向け、僕を捕まえた男に言い放った。何とか逃れようと手を動かしたが、この大柄な男の力は強く、びくとも動かない。そして、頭にごりっと何か固い感触を感じた。
「お前が発砲したと同時に、この子の頭に弾をぶち込む」
   男は冷たく言い放った。
   殺される――。
   背筋に冷たいものが流れ落ちていく。

   ホルガーは拳銃を放り投げた。
「そうだ。それで良い」
「その子を放せ。子供を人質にするなど最低の行為だ」
「単なる子供ではない。旧領主層の子息だ」
「身分云々は関係無い。子供に銃口を向けるな。私が身代わりとなる。だからその子を解放しろ」
   恐怖で声が出なかった。ただホルガーを見つめていた。ホルガーは気遣わしげに此方を見ていた。
「そのまま此方に来い」
   ホルガーは言われるまま、一歩一歩此方にやって来る。手を挙げろ、と言われ、その通り両手を挙げた。
   ホルガーがあと二メートルのところまで迫る。何とか逃れようとまた暴れた時、ホルガーの背後で、銃を構えて立つ男の姿が見えた。
「ホルガー! 後ろ……!」

   パン――。
   ありたっけの声で叫ぶのと、銃の音が同時で――。
   ホルガーが此方を見つめたまま、前のめりに倒れていく。赤い血が雨のように降り注ぐ――。
「小僧。これ以上、暴れたらお前も同じ目に遭うことになる。大人しくしていろ」

   声が、出ない――。
   ホルガー……。
   ホルガーが死んだ?
   そんな筈は無い。
   ホルガーは強いから僕の護衛を任せたと、父上が言っていた。だから、いつでも必ずホルガーの言うことを聞くように、と。
   死んでいない。
   ホルガーが死ぬ筈が無い――!


[2010.8.10]