何が起こったのか、全く解らなかった。
   気を失ってはいない。ただ、ふわりと身体が浮かんで、次の瞬間には海のなかに居た。驚いて息を吸い込みそうになるのを懸命に堪え、兎に角、海面に浮上した。
「ハインリヒ! ハインリヒ!」
   何とか浮上して大きく息を吸い込んでいると、父上の声が聞こえてきた。
「父上!」
   その声に応えると、何処だ、と父上が問い返す。
   何処だと言われても――。
   周囲には白い船の残骸が散らばっていた。何が起こったのか解ったのはこの時だった。船が事故を起こしてしまったに違いない。それで俺は海に投げ出されて――。
「ハインリヒ! 何処だ!?」
   父上の姿が遙か先に見える。此処だよ――と手を振ると、父上は此方に気付いてくれた。
「其方に行くから待っていろ」
   程なくして、父上が泳いで此方に来る。船の残骸をかきわけて、手を伸ばす。父上の手が俺の手を掴み、引き寄せた。
「父上。これって事故……?」
「そのようだ。……突然、激突音が聞こえて、気付いたら海に投げ出されていた。岩礁にしては何の反応も無かったのだが……。怪我は無いか?」
「大丈夫。父上は?」
「私も怪我は無い。不幸中の幸いだな」
   父上は左右を見渡し、船体の大きな破片を手許に引き寄せた。これに掴まっていなさい、と俺の前に差し出す。
「私は救命ボートを探してくる。良いか、絶対に動くのではないぞ」
「解った」
   頷くと、父上は辺りを見回しながら泳ぎ始める。父上の泳ぐ姿を初めて見た。無駄な動きひとつなく、まるで海を自由自在にかきわけているかのような泳ぎ方だった。
   その父上が突然、潜り始めた。救命ボートが沈んでしまっているのだろうか。それとも何か見つけたのだろうか。

   暫くしても父上は浮上してこない。
「父上……?」
   心配になって辺りを見渡す。船の残骸以外には何も見えない。それに波の音以外は何も聞こえて来ない。
   不安になった。父上と俺はどうやって陸に戻るのだろう。連絡しようにもその手段も無い。
「父上……、父上! 何処に居るの?」
   海上に一人きりと思うと恐怖すら憶えて、父を呼んだ。どうしよう、俺も潜って父上の所に――そう考えていたところへ、父上がざばりと海面に上がった。
「父上!」
「救命ボートは駄目だ。穴が空いて使い物にならない。発煙筒を見つけたが、これも使えなかった。……これだけの事故で私達に怪我一つ無いことが奇跡だな」
「どうやって……、陸に戻るの……?」
   父上は黙り込み、空を見上げた。父上、と呼び掛けると、腕時計を見て、大丈夫だと告げる。
「10時20分で時計は止まってしまっているが、今は10時30分頃だろう。日暮れまで時間はたっぷりある。太陽が向こうにあるということは、進行方向は此方だ。此処から陸までおそらく20キロ……もう少しあるかもしれんが、30キロ未満の筈だ」
   父上はふと笑みを浮かべた。父上はもしかして――。考えたくもないけれど、もしかして――。

「遭難したのがお前と私だけだったことも幸いだ」
「父上……。まさか……」
「泳ぐぞ、ハインリヒ」
   やっぱり――。
   予感は的中した。的中してほしくなかったのに、父上は予想を外させてくれなかった。
「20キロも泳げないよ。助けが来るまで待った方が……」
「救難信号も無いから、私達から救援を求めることは出来ない。港側で私達が寄港しないことに気付くのは夜になるだろう。如何に夏とはいえ、陽が暮れたら水温は低下する。そんななかでただじっと待つ方が危険だ」
「でも父上……」
「行くぞ、ハインリヒ。此処で凝としていても此処は沖合だ。鮫もやって来る」
   鮫が来る――。そう言われては、泳がざるを得なかった。



   初めのうちはそれほど辛いと思わなかった。父上と一緒に肩を並べて泳いだ。楽な泳ぎ方をしなさい――と横合いから父上が言ったが、どうしても父上のようには上手く泳げなかった。そうするうち、徐々に父から後れを取っていった。手足が疲れてきた。
「ハインリヒ。確り泳ぐんだ」
「疲れた……」
「何を今頃から弱音を吐いている。陸はまだまだ先だぞ」
「20キロも無理……」
「泳ぎなさい」
   手や足が棒になったかのように、上手く動かない。おまけに喉も渇いてくる。海水を飲むなと、父上は俺に度々言った。どのくらい泳いだのか解らないほど疲れ果てているのに、陸に近付いている感じがしない。
   手が動かなくなって、動きを止めると、途端に海に吸い寄せられそうになる。その時には父がぐいと俺の手を引っ張ってくれた。そうして泳ぎ進め、陸が少し大きく見え始めた時にはどれだけ嬉しかったか――。

   その時には陽はもう傾きかけていた。海の水は確かに冷たくなっていて、寒さを感じていた。おまけに疲れ切ったせいか、気持が悪くなって吐いた。父上は私の背をそっと擦り、もう少しだ――と励ましてくれた。
   それでも陸はなかなか近付いてはくれなかった。

   陽がどっぷりと暮れて折角見えていた陸が見えなくなってくる。波も高くなり、前に進むのが難しくなってくる。父上は絶えず俺の手を引っ張った。父上も疲れているだろうに、そんな様子は全く見せなかった。俺も泳がないと――、力を振り絞りながら暗い海を泳いでいく。眼が眩んできて、何度も吐いた。


   漸く眼の前に砂浜が見えた時は本当に嬉しかった。父上は既に泳がずとも足が届く深さだったようで、体勢を変え、俺の身体を引っ張ってくれた。俺の足も届くようになった。しかし立ち上がろうにも、足ががくがくと震え、立ち上がれなかった。
   砂浜に上がると、父上と揃って座り込んだ。父上は辺りを見渡し、波に流されてしまったのだな――と呟いた。
「え……?」
「此処は港から少し離れたところだ。港まで歩いて……15分ぐらいかかるか」
「今から歩くの……?」
「此処で休んでいろと言ってやりたいが、何が起こるか解らん。もう少し休んだら、港まで歩こう」
   休んだのは十分ほどだった。極度の疲労を抱えながら、立ち上がり、港へと向かう。風は生ぬるいのに身体が冷えてきた。ずっと水に浸かっていたせいだろう。くしゃみを繰り返した俺を、父上が抱き寄せる。その父上の身体も随分冷えていた。

   港に到着し、父上は真っ直ぐ駐車場に向かった。それまでの間、誰とも会うことが無かった。もしかしたら真夜中なのかもしれない。
   車の鍵を指紋認証を使って解除し、エンジンを始動させる。自動運転にして目的地をセットする前に、父上は母上の許に連絡をいれた。
「ユリア。今から帰宅するから風呂と食事の用意を頼む。……ああ、予定が狂ってしまったんだ。事情は後で話すから……」
   車はゆっくりと発進して、邸へと向かう。疲れ切って、ぐったりとドアに身体を寄せて眼を閉じた。

   邸に到着すると、母上が玄関で待っていてくれた。ずぶ濡れの俺と父上の姿を見て、どうしたの――と驚きの声を上げる。
「ユリア、湯を持って来てくれ」
   母上は頷いて、すぐにお湯を取りに行ってくれた。父上はロビーに置いてある椅子に腰を下ろした。疲れ切っていた。
   程なくして母上が湯とタオルを持ってきてくれ、それを一気に飲み干した。身体のなかがぽかぽかと暖かくなる。母上は俺の身体を拭きながら、すぐにお風呂に入りなさい――と空になったカップを受け取って言った。
「ユリア。港湾から連絡は無かったか?」
「いいえ、何も。一体何があったのですか……?」
   母上と父上の声を背に受けながら、浴室へと向かった。


[2010.7.25]