22.海上遭難記録



   マルセイユの近くに無人島がある。昨年、マルセイユに来た時に、海岸から望遠鏡で小さく見えるその島を見つけた。それ以来、ずっと行ってみたいと思っていたところだった。
「本当に行くの!?」
   夏休みの近付いたこの日、いつも通り、リビングルームで家族と語らっていると、父がハインリヒの言っていたマルセイユの無人島に行ってみよう――と言った。その言葉に驚いて、身を乗り出して聞き返したところ、父上は頷いて、船を買った、と言った。
「船?」
   今度はルディが聞き返す。父上は再び頷いて、プレジャーボートだ、と言った。
「家族四人で乗るにはちょうど良い大きさの船だ。フェルディナントの体調も良いし、偶にはそうして外に出るのも良いだろう」
   ルディと俺は顔を見合わせて喜びの声を上げた。あの島はどうなっているんだろう――ルディとよく語り合っていたことだった。
   ここ数年は夏になると、毎年、マルセイユに行っている。帝都からマルセイユは遠いが、海に面した町で、緑も多い。無人島で何をしようか――と、その日からルディと心待ちにしていた。


   ところが――。
   マルセイユにやって来て三日目の夜、ルディが突然、体調を崩した。今年の気候は寒暖の差が激しく、前日と10度の温度差が生じていた。そのため、ルディは風邪をひいてしまったようだった。
「ルディ、行けそうにない?」
   今回の滞在日数は短いから、明日を逃すと無人島に行けなくなる。ベッドに横たわるルディに尋ねると、ルディは熱っぽい息を吐きながら、ごめん――と言った。
「何とか今日中に熱が下がらないかな」
「ロイ……。行ってきて話を聞かせてくれないかな?」
「そんな……。折角、ルディと一緒に無人島廻りが出来ると思ってたのに……」
「ごめん……。今回は無理みたいだ……」
   俺の願いも空しく、翌朝になってもルディの体調は良くならなかった。一番楽しみにしていたことだっただけに残念で、項垂れながらリビングルームに行くと、父上が朝食を摂ったら準備しなさい――と言った。
「でもルディが……」
「フェルディナントと母上は此処に残る。船の引き渡しが今日で、その予定を変えるのが少々難しいのだ。試運転もしてみなくてはならないからな。お前と私とでぐるりと廻って来よう」
   父上の隣で母上が、楽しんでらっしゃい――と言葉を添える。
「呉々も気を付けてね。お父様の言うことを聞いて、無茶なことはしないのよ」
「うん、解った。お土産話を一杯持ってくるよ!」
   ルディと行けないことは残念だったが、あの無人島に行けることはやはり嬉しかった。朝食を摂り、着替えてから、父上の車で港へと向かう。

   其処には真新しい船があった。そして、その隣に、スーツを纏った中年の男が立っていた。どうやらディーラーのようだった。
「ロートリンゲン様、このたびはお取引をありがとうございます」
   父上は彼と握手し、俺のことを紹介した。中年のその男はにこにこと愛想良く俺とも握手を交わす。
「確か御家族四人でクルーズをと伺っていましたが……」
「長男が体調を崩して、妻と一緒に邸に残っている。四人で来たかったのだが、私も今回を逃すと来年まで此方に来られなくてね」
「そうでしたか……。このところ天候不順が続いていますから、体調を崩されたのでしょう」
   父上が話をする間、俺はずっと眼の前の真新しい船を見ていた。真白な船体で思っていたよりも大きくて――。
   ルディや母上と一緒に乗りたかったな――と思ってしまう。きっと家族四人ならもっと楽しかっただろう。
「ハインリヒ。浸水を済ませたら出立するぞ」
   船に続々と人が集まってきたと思ったら、これから海に浮かべるらしい。父上の側に行くと、その手には鍵らしいものが握られていた。
「父上。……それ、船の鍵?」
   尋ねると、父はそうだと言って、鍵を見せてくれた。鍵らしい鍵だったが、父上が鍵を持っているということは――。
「もしかして……、父上が操縦するの?」
「他に誰が操縦するんだ。船舶免許は持っているのだから、安心しなさい」
   父上は笑いながらそう言った。船舶免許なんていつ取ったの――と尋ねると、士官学校で取らされたんだという答えが返ってくる。
「まあ、士官学校以来だから20数年ぶりの操縦だがな。操作方法は変わっていないから大丈夫だ」
   それに暫く港湾を一周してから沖に出る――と父上は言った。それを聞いて安心した。


   真白い船が海に浮かぶ。拍手が沸き上がり、父上と一緒に船に乗り込む。父上は鍵を挿し込んで、エンジンを始動させた。先程の男の人が不具合があったら仰って下さいと語り掛けるなか、父上は船をゆっくりと動かす。
   船は徐々にスピードを出し、港の中をぐるりと一周した。不具合が無いことを確認してから、一旦、船を停泊させてディーラーを下ろす。良い旅を――と彼は言って頭を下げた。
「行こうか。ハインリヒ」
   父上の操縦はたどたどしいものではなかったから、安心出来た。操縦席の側で父上の姿を見ながら、海風を全身に浴びた。
「ルディと一緒に来たかったな」
「来年、また此方に来れば良い。今年は昇進と重なって忙しかったから短い期間しか休暇が取れなかったが、来年はもう少し長く休暇を取るつもりだ」
「うん。来年を楽しみにしてるよ」
   その時、視界の端にちらりと何かが映った。イルカのようだった。
「父上! あれイルカだよ!」
「こんなところにまで珍しいな。近付いてみようか」
   父上は梶をゆっくり回す。その間、デッキに出て、イルカの姿を、眼を凝らしながら探した。ちらちらとその姿が見える。
「父上、カメラあったよね!? 何処にあるの?」
「私の鞄の中だ。手が放せないから、鞄を開けて取りなさい」
   イルカを追うために、父上はスピードを増していた。父上の側に行って、鞄のなかからカメラを取り出す。そしてまた、デッキに出る。
「父上、もう少し……!」
「解っている。あまり身を乗り出すのではないぞ」
   あと少しでイルカの姿が撮れる――。
   そんな時、突然、大きな衝撃音がして身体がふわりと浮いた。


[2010.7.24]