館長との話を無難に終えてロートリンゲン家に戻ろうと帰路を歩いていると、ゲオルグ、と背後から声をかけられた。その声に驚いて振り返ると閣下だった。
「閣下……! え……? 徒歩で通勤なさっているのですか?」
   てっきり車で通っているのかと思っていた。驚いて、挨拶よりも先にそのことを尋ねてしまった。
「ああ。急がある時には車を使うが、いつもは徒歩だ。身体が鈍ってしまうからな」
   此処から宮殿まで近いとはいえ、護衛もつけずに通勤するとは旧領主層らしくないというか――。しかも重職に就いていると聞いているのに――。
「そうでしたか……。お疲れ様です。今日からひと月の間、ご厄介になります」
「君が来るのを楽しみにしていたよ。気兼ねなく過ごしてくれ」
「ありがとうございます」
   門の前まで辿り着くと、閣下は門柱にある小さな四角いセンサーのようなものに手を翳す。指紋認証なのだろう。ピッと軽い音が聞こえるとすぐに門が開いた。
「ユリアや子供達には会ったか?」
「ええ。二時頃此方に到着して、話をしました。ルディとロイが大きくなっていて驚きました」
「子供の成長は早いものだ。この頃は二人揃って悪戯三昧でな」
   扉の近くに来るや否や、扉がゆっくりと開く。執事のフリッツがお帰りなさいませ――と頭を下げて出迎える。ユリアも出迎えていた。

「お帰りなさい。ゲオルグも一緒だったのね」
「ただいま。其処の道でばったり会ったんだ」
   執事が閣下の鞄を受け取る。二階からお帰りなさい――と元気な声が聞こえて来た。ロイは階段を駆け下りてくる。ルディはその後をゆっくり歩いて降りて来た。
「ハインリヒ。階段は駆け下りるものではない」
   ごめんなさい――とロイは素直に謝る。ユリアは俺に向かって、着替えたらリビングルームに降りてらっしゃいと言った。それから子供達に、リビングルームで待っていなさい――と告げる。ユリアは閣下と共に奥の部屋へと向かう。
「ゲオルグ、早く来てね」
   ルディとロイは俺にそう言ってから、リビングルームに向かった。明るい良い子達だった。

   二階で上着を脱ぎ、ネクタイを解くだけの簡単な着替えを済ませてから、リビングルームへ向かう。リビングルームからは子供達の賑やかな声が聞こえてくる。ノックしてから部屋に入ると、子供達とミクラス夫人が居た。どうやらミクラス夫人が話し相手になっていたようだった。
「映像見せてくれてありがとう。あの後、もう一度見たんだよ」
   ルディが此方を見て言う。木がいっぱいあった――とロイが両手を広げる。帝都生まれの帝都育ちでは、確かにハンブルクにあるような森を見たことが無かったのだろう。
「また撮ったら送ってあげるよ」
   二人は嬉しそうな声を上げる。良かったですね――とミクラス夫人が二人に言った。
   その時、着替えを済ませた閣下とユリアが現れる。ミクラス夫人は一礼して、お食事の用意を整えます――と言って部屋を後にした。
「フェルディナント、ハインリヒ。ゲオルグが来て嬉しいのは解るが、仕事の邪魔をしてはならんぞ。ゲオルグは仕事のために帝都に来ているのだからな」
   はい、と二人が頷きながら返事をする。閣下は俺に座を勧め、そして自分は向かい側に腰を下ろした。そうして暫しの間歓談していると、ミクラス夫人が再び現れて、食事の用意が整ったことを告げる。
   ダイニングルームへと移動し、食事となった。食事中も話に花が咲いた。そして驚いたことに、ルディもロイも非常にマナーが良かった。このくらいの年齢ならば、食事中でも落ち着きが無いだろうに、席を立つこともなく、物を落とすこともなく、大人と同じように食事を進める。食後に大人は珈琲を、子供達はミルクを飲んだ。香りの良い珈琲で、一日の疲れが取れるようだった。

   リビングルームに再び戻って来ると、ルディとロイは遊び始める。閣下はそれを見ながら、騒がしくて済まない――と言った。
「いいえ。二人とも大人しくて良い子達ですよ。私が子供の頃はもっと落ち着きが無かったですから」
   同じようなものよ――とユリアは笑いながら言う。
「いつも二人で遊んでいるから、声も二倍だし……」
   閣下はそれに頷いて、苦笑する。ミクラス夫人が再びやってきて、入浴の準備が整ったことを報せた。
「フェルディナント様、ハインリヒ様。そろそろお遊びを止めてお風呂に入りますよ」
   二人は遊んでいた玩具を誰に言われるでもなく片付け始める。感心した。きっと閣下とユリアがそう躾けているのだろう。
「ルディの具合は良いようですね。ロイと全く変わりないように見えます」
「そうだな。生まれた頃と比べると大分良くなった。あまり外出の出来ない身体であることには変わりないが……。そのせいで、学校にも行かせていない」
   そうか――。
   考えてみれば、ルディはもうジュニアスクールに通う年齢だ。今日一日家に居たということは、学校に行っていないということで――。
「体調が良い時は今日のようにロイと一緒に遊んでいるが……。何かあればすぐに発熱するし、外の濁った大気で気管支をやられるらしく、長時間外に出してはやれない」
「そうですか……。今日のような姿を見ていると、そう見えませんが……」
「だがこれだけ改善してきているのだから、成長するごとに改善するのだろうと考えることにしている」
   ユリアも閣下と顔を見合わせて微笑みながら頷く。俺もそう思う。きっとルディは今後もっと良くなる――と。

「ところで、帝国美術館へ転出の話を断ったと聞いたが……」
「ええ。修繕担当者が欲しいとのことでお話を頂いたのですが、今少しハンブルク美術館で修繕を身につけたいので……」
   閣下は残念だ――と告げる。隣に座っていたユリアが微笑んで、兄からまだ修繕を習いたいそうよ――と言い添えた。
「確かにオスカーの技術は帝国随一だ。帝国美術館も博物館もオスカーの技術力を欲しがる気持は解る」
   父にもこれまでに何度か帝都へ招請されていた。父はハンブルクから外に出る気はなかったようで、それをずっと断っていた。
「私も君が此方に来てくれたらと思ったのだが……。やはり難しいか」
「申し訳御座いません。まだ当分はハンブルク美術館から離れたくないので……」
   そう応えると閣下は苦笑しながらも仕方が無いな――と呟いた。その時、扉が開いて、ルディとロイが戻ってくる。二人とも寝間着に着替え、その上からカーディガンを羽織っていた。
「ゲオルグのお仕事はどんなお仕事なの?」
   ルディとロイに問われ、二人に解りやすいように説明する。二人は俺の話に眼を輝かせながら耳を傾けていた。ユリアや閣下も話に加わる。そうした歓談の時間は、俺にとっても楽しく過ぎていった。
「さあ、ルディ、ロイ。そろそろお休みしなさい」
   時計の針が午後九時になった時、ユリアがルディとロイを促した。ロイはもう少し、と口を尖らせたが、それに対して閣下が寝る時間だとぴしりと言い返す。二人はソファから立ち上がった。
「お休みなさい」
   そう言ってから、二人は大人しく部屋を去っていく。
「ゲオルグが来て嬉しくてはしゃいでいるようだ」
「素直な良い子達ですよ」
「ゲオルグ。偶にはこうして帝都に来てくれると嬉しい。私の方には親戚も居ないし、ハンブルクに行きたくともフェルディナントが居るから、あまり遠出は出来ないんだ」
「ありがとうございます。ルディやロイを見ていると、弟が出来たような感じがします。私も親戚が居ないので……」
   部屋がノックされ、ミクラス夫人が現れる。ワインを持ってやって来た。閣下とワイングラスを傾けながら、ハンブルクのことや美術品に関することまで語り合った。

   午後10時を過ぎてから部屋に戻り、備え付けの浴室で入浴を済ませてベッドに入った。まるで豪華なホテルのような部屋だった。明日の朝は七時に起きれば良いのだし、本でも読んでから寝ようかと思ったが、移動の疲れが出たのか、そのまま眠ってしまった。


[2010.7.9]