ロートリンゲン家――。
   この邸を訪れたのは、10年前のことになるか。ユリアの結婚式の時、この屋敷を訪れて以来のことだった。今も変わりなく、屋敷はそびえ立っている。門の前までやって来た時、こんなところにひと月も滞在して良いのだろうか――と思わず躊躇した程だった。
   門から玄関までの距離も長く、また玄関を潜れば二階まで吹き抜けになっていて、赤い絨毯を敷いた階段が見える。玄関で待ち受けていたユリアはすっかりこの屋敷に溶け込んでみえた。
   そんなユリアの側に居たのが、二人の子供達で、ルディとロイだった。ルディはユリアによく似ていた。ロイもユリアに似ているが、どちらかといえば精悍な顔つきをしていて、閣下に――父親に、似ている。
『ルディ、ロイ。御挨拶なさい』
   ユリアに促され、ルディとロイが、こんにちは――と挨拶をする。此方も挨拶を返すと、二人は嬉しそうに、しかし少し気恥ずかしそうに笑う。こうしてみると、二人ともよく似ていて、双子といっても差し支えないように思えた。ということは、二人ともユリアによく似ているということなのだろうか。
   応接室で暫くユリアと話をしてから、二階の部屋に案内してもらった。荷物は既に執事に預けてあり、部屋に置かれてあった。驚いたのは、その客室の豪華なこと――。

   家具や調度品は名品揃いで、壁に掛けてある絵は高名な画家のもので――。
   部屋自体が広く、大きな窓にはバルコニーもある。其処には小さなテーブルと椅子が備えてあった。ベッドもキングサイズで大きく、天蓋まで付いている。
   ロートリンゲン家は旧領主家のなかでも五本の指に入るほど、経済力があるとは知っていたが――。
   この部屋を見て、初めてそれを実感した気がする。


   ユリアにロートリンゲン家との縁談が持ち上がった時には、祖父母をはじめ俺の両親もそして俺も驚いた。ユリアが付き合っているというフランツという名の男性が、まさかロートリンゲン家の子息だとは誰も気付かなかった。
   それもユリアが初めて付き合った男性が、ロートリンゲン家の子息とは――。


   俺はユリアと6歳違いで、姉弟のように育った。ユリアは近所でも評判の美人で、俺の自慢だった。高校に通っていた頃も、大学に通っていた頃も、男の方がユリアを放っておかなかった。
   それなのにユリアは誰とも付き合ったことが無かった。相手が交際を求めてきても、いつも断ってしまう。それは何故なのか不思議に思えて、ユリアに尋ねたことがある。するとユリアは、本気で交際したいと言っている人達では無さそうだから――と、応えた。つまりはユリアは軽薄な男を好かなかった。

   それが意外にも、ハンブルク美術館で一度顔を合わせただけの人物との交際に踏み切った。それまでのユリアを知る人間は皆、そのことに驚いた。誠実そうな人に見えたから――とユリアは言っていた。そして彼と会った日のユリアは本当に楽しそうで――、これまで以上に輝いて、綺麗になったように見えた。

   ところが、ユリアの交際相手がロートリンゲン家の子息だと判明した時、ユリアはあまりにショックを受けて――泣いた。帝都での祝賀会に参加した折に判明したことだった。祝賀会が終わり、泣き続けるユリアを父が案じて、俺が帝都まで迎えに行き、ハンブルクへと戻った。
   ユリアは弄ばれたのだ――と、その時誰もがそう思った。父の話によると、その場で縁談の話も出たようだが、父もユリアもその時はそれを受けるつもりはなかった。

   旧領主家は旧領主家同士で結婚するのが一般的なことであり、実際、ロートリンゲン家にもフォン・シェリング家との縁談があるようだった。だからユリアはそのまま交際を続けたとしても、愛人としてしか扱われない訳で――。
   ユリアが悲しむのも当然だった。

   普段は穏やかな父が、今後の交際にはきっぱりと反対の意を示した。身分を明かさず付き合っていたことからも、愛人としてしか見ていなかったのだ――と。一方で、祖父――ユリアからみれば父――が、考え込みながら言った。
『ロートリンゲン家の方々は不誠実な人間ではないんだ。……お前はまだ帝国美術院との繋がりが浅いから解らないだろうが、あの元帥閣下の御子息がそんな不誠実で軽薄な方とも思えなくてな。もしかしたら……、ユリアのことを大切に想っていたのかもしれない』
『しかし、父さん。素性を明かさなかったことはどう説明するんだ? ユリアを騙したとしか思えないだろう』
   この時は祖父も反論出来なかった。
   一方、ユリアは憔悴仕切っていた。そんなユリアに追い打ちをかけるように、家に悪戯電話や何者かが監視しているようなことが起こった。祖父母宅には昼夜問わず電話が鳴り響き、電話を取ると、旧領主家の子息との交際など分不相応だとの言葉が発せられる。ユリアは暫く俺の家に身を置くことになり、其処からハンブルク美術館へと通った。
   父と一緒に通勤していたから、何も問題は無いと思っていたら、今度は美術館に圧力がかかった。収集した美術品が盗品ではないかとか、根も葉もない話を真に受けて警察官が乗り込んできた。そしてユリア個人を誹謗するビラが美術館に届いた。警察にそれを訴えても、彼等は何の対策も講じてくれなかった。
   そのためユリアは暫く仕事を休むことにした。ユリアが休職すると、警察の捜査も打ち切られ、不審電話やビラも届かなくなった。ユリアが俺の自宅に来てからというもの、不審電話が鳴り続けていたが、ユリアが実家に戻ると、その電話もぴたりと止んだ。

   そんな折、ユリアの許に閣下がやって来た。父から聞いたことだが、美術館にやって来たらしい。その時、父は失礼だと思いながらも問い質した。ユリアとのことは遊びではなかったのか――と。
   閣下は、ユリアをロートリンゲン家に迎え入れたいと応えたらしい。それで父は納得し、家の住所を教えた。
『今更だが、ユリアが惚れた理由が解った』
   あの日、父は苦笑しながらそう言っていた。それを聞いた祖父は私の言った通りだろう――と胸を張っていた。そしてこう付け加えた。
『尤もロートリンゲン家ではない他の旧領主家だったら、私もユリアに交際を断念させていたかもしれない。一般人が旧領主家に嫁ぐのは容易なことではない。……だが、ロートリンゲン家なら、ユリアでも大丈夫か……とな』
   旧領主家のしきたりを何も知らないユリアを必ず支えてくれる――と祖父は言っていた。
   確かに祖父の言葉通り、ユリアは何でも親切に教えてもらえる――と常に言っていた。幸せかどうかは、今のユリアを見れば一目瞭然だった。


「ゲオルグ。入っても良い?」
   何気なく絵を眺めていたところ、扉がノックされ、少し開いた。其処からぴょこりと顔を出したのはルディとロイだった。
「良いよ。おいで」
   小さな従弟達は嬉しそうに顔を見合わせる。ロイが先に入って、ルディが静かに扉を閉めてから入って来る。きちんと躾けられていることが窺えた。
「ゲオルグ、あのね、此処にひと月、居るんだよね?」
   二人と目線を合わせるために、屈む。ロイに問われて頷くと、一緒に遊んでね――とロイは言った。
「ああ。いつでも部屋においで」
「ゲオルグ。ハンブルクの話を聞かせて! どんな町なの?」
   ルディは先程もハンブルクのことを尋ねて来た。興味があるのだろう。
「そうだな。帝都よりも人が少なくて、だけどその分、緑の多いところだよ。冬は此処より寒くてね。とても寒い日には雪が積もって真っ白になるんだ」
   ルディは眼を輝かせる。もっとお話聞かせて――と身を乗り出して来る。
「あ……、そうだ。少し待ってくれ。ハンブルクの町の映像を持って来ているから」
   来週、帝国美術館でハンブルク美術館の様子を紹介するのに資料として持って来た映像がある。鞄からパソコンを取り出して、起動させる。二人はちょこんとソファの上に座った。
   ハンブルクの町並みが映る。二人共が食い入るように見つめる。
「映像の途中にお祖父さんも出て来るから、よく見ていてごらん」
   前館長からみたハンブルク美術館のことを、一言話してくれと頼んでおいて良かった。ルディとロイは祖父母のことは殆ど記憶に無いだろう。二人ともハンブルクに遊びに来れば良いのに一度も来たことが無いから――。
   あ――。
   そうか。もしかしたら――。
   行きたくとも行けないのか。ルディはあまり外に出ることが出来ないと言っていたから――。
   早く気付けば良かった。そうすればもっと映像を撮ってきたのに――。

   扉を叩く音が聞こえてきて返事をすると、ユリアが現れた。部屋に入ってきて、ルディ、ロイ、と呼び掛ける。
「ゲオルグの邪魔をしては駄目よ。いらっしゃい」
「良いんだ、ユリア。ユリアも見なよ。今回、美術館紹介のためにハンブルクの映像を撮ってきたんだ。祖父さんも映ってるから」
「御祖父様だよ、母上!」
   ルディはユリアを見上げて言った。ユリアも画面を見る。祖父の姿を暫く見、そして画面が切り替わると、大分年を取ったわね――と言った。
「気を利かせてもっと撮ってくれば良かった。二人とも祖父さんとは会っていないのだろう?」
「ええ。ルディもロイも赤ちゃんの頃だけね。偶にテレビ電話で話したり、写真を送ってくれたりしてくれるけど……」
   ユリアは懐かしむような眼で映像を見る。それから傍と気付いた様子で此方を見て言った。
「時間は大丈夫なの? 今から館長とお会いするって言ってなかった?」
「あ、もうそんな時間? そろそろ出掛けるよ。映像があと30分ぐらいあるからゆっくり観ると良い。終わったら電源を切ってくれれば良いから」
   ありがとう――と、ユリアは微笑む。ルディとロイは熱心に画面を見つめていた。その間に、ユリアは俺を送り出してくれた。


[2010.7.5]