「じゃあ、昨晩は何事も無かったんだ?」
   廊下を歩いていると、またアリーヌに捕まって昨晩のことを根掘り葉掘り聞かれた。これからユリア様の社交ダンスの講師が来るから、その準備もしなくてはならないのに――。アリーヌ他使用人達は、ユリア様の話を聞きたがった。他家の奥様方の様子までも。
「で、ネックレスは?」
「え? 勿論、すぐに奥様にお返しになられましたよ」
   演劇鑑賞から帰宅して着替えを済ませると、ユリア様はネックレスを丹念に拭いて奥様の部屋へと向かった。疲れているから返すのは明日でも良いだろうに、律儀な方だと思った。そしてやはり、ユリア様は私が思った通りの方だと思い至った。
   アリーヌは拍子抜けした様子で面白くないね――と言った。
「面白くないなんて……」
「私、絶対にあのユリア様は何か企んでいると思うんだけどね。あんたはユリア様を評価しているようだけど、あんなおっとりした方が一番腹黒いんだよ」

   その時、突然扉が開いた。アリーヌと使用人達の顔が一瞬にして凍り付く。振り返ると、奥様が立っていた。
「陰口を叩くならもっと陰でおやりなさい。声が漏れ聞こえたら見苦しいですよ」
「す、すみません」
   一同が立ち上がり、頭を下げる。奥様は溜息を吐いて言った。
「ユリアのことが気にかかるのでしょうけど、このような真っ昼間からこそこそとみっともない。……アガタ、私の部屋に」
「はい。すぐに参ります」
   奥様の足音が遠退いてから、アリーヌが息を深く吐いて言った。
「奥様はきつい方だから、フランツ様もおっとりした方を選んだのかもね」
   それからまたひそひそ話が始まる。今度は今迄よりもっと声を潜めて。
「でもあんた達は知らないだろうけど、前の奥様はもっと厳しい方だったんだよ。それに比べると今の奥様の方が良いけどね。前の奥様と来たら、少し失敗しただけで首が飛んだんだから」
   彼女達の話を背に、奥様の部屋へと向かう。奥様の用件を聞き終えたら、すぐにユリア様の許に行かなくては――。


「失礼します」
   奥様は奥で椅子に座っていた。此方にいらっしゃい――と向かい側の椅子を勧められる。
「あの……、奥様。ご用件は……」
「重要な話があるの。其処に座って聞いて頂戴」
   失礼します、と言って向かい側に腰を下ろすと、奥様は仕事には慣れたかと尋ねてきた。
「ユリア様のお世話をということで御屋敷に上がらせていただきましたが、私自身、このような仕事は初めてなのでまだ右往左往しております」
   そう答えると奥様は笑って、正直者ね――と言った。
「だから貴方にユリアの世話を頼んだのよ。……ねえ、アガタ。貴方はユリアをどう見ているかしら?」
   もしかして、先程の陰口の件で呼び出されたのだろうか――。どきりとした。
「素敵な方だと思います。お優しくて、物静かな方で……」
「アリーヌ達が話していたように、裏表のある人間だと思う?」
「いいえ……。私はまったくそう思えなくて……。……尤もはじめはそうかと疑いましたけど……、でもユリア様と接していると本当に心優しい方なのだと思えて……」
「そうね。旧領主家の女性は殺伐としているから、あんなにおっとりとした子は珍しいもの。ユリアは優しい素敵な女性です。まったくフランツがよくユリアを探し出したと思える程にね」
   奥様はそう言って笑い、アガタ、と私の名を呼んだ。
「貴方に今後もユリアの世話を頼んで良いかしら?」
「え……、あ、私で務まりますなら」
「年が近いし、貴方が良いのよ。真正直で物事もよく見ようとする貴方がね」
「奥様……?」
「アリーヌから聞いているかもしれないけど、私もユリアと同じ一般家庭の出身なの。身分違いだって、周囲から結婚を反対されたわ。それでも、クラウスは――主人は私を選びこの家を飛び出して、二人で暮らし始めたの。帝都郊外のアパートの一室でね。そんな生活が長く続く訳がないと覚悟していたところ、フランツを身ごもって……。フランツを産んで暫くして、クラウスが子供が出来たことをお義父様に話して、それで漸くクラウスとの結婚を認めてもらったの」

   知らなかった――。
   奥様が旧領主家の出身ではないことは聞き知っていたけれど、そんなことがあったなんて――。

「だからこの家に入った時は大変でした。お義父様やお義母様に良い風に思われていないことは覚悟していたけれど、使用人達までも言うことを聞いてくれなくて……。それこそ数え切れないほどの低俗な嫌がらせを受けましたよ。フランツには旧領主家に相応しい教育を受けさせなければならないからと、同じ屋敷に居ながら引き離されてしまったしね。ロートリンゲン家としては私に出て行ってほしかったのでしょうけれど、私が出て行ったら、二度とフランツとは会えなくなる……。そう思って、居座りました。……使用人達の嫌がらせに対抗するようになったり、無理難題を押しつけるお義母様に言い返したりとね」
   奥様はそう言ってから笑った。
「強くならざるを得なくて頑張ったけれど、身体が悲鳴を上げてしまったの。折角二人目の子を身ごもったのに流産してしまって……。それ以来、子供を産めない身体となってしまいました」
   驚いて、言葉が出なかった。
   奥様を見つめていると、辛い経験でした、と穏やかな口調で語った。
「胎児は女の子でした。女の子が欲しいと思っていたから、流産した時は本当に悲しくて……」
「奥様……」
「ユリアにはそんな思いをさせたくないの。だから、ユリアの相談相手となれるよう年齢の近く、そして思慮のある人を雇って、世話役にしたいと考えました。以前、この邸でパーティを開いた時、貴方が手伝いに来てくれて、お客様の状況を見ながらよく働いてくれたでしょう。それにパトリックから貴方の話もよく聞いていたから、ユリアの世話役にちょうど良いと思ったの」
   納得の出来る話だった。
   でも――。
「私に務まるでしょうか……?」
「ええ、勿論。ただ貴方にはずっとユリアの味方で居て欲しいの。……気弱な人では使用人達に甘く見られてしまいます。ユリアはその意味では優しすぎる。……まあ、ユリア一辺倒なフランツがそれを知ったら叱り飛ばすでしょうけど、フランツも四六時中屋敷に居る訳ではないからね」
   ユリア様の世話役をこのまま勤めるのなら、使用人達から距離をおいた方が良いだろう。アリーヌから根掘り葉掘り聞かれるのが面倒だったから、そうするつもりではいた。
「そしてアガタ、出来れば貴方にはパトリックと共にこの家に入ってほしいの」
「え?」
   意味が解らず、どういうことですか――と問い返すと、奥様は今のように此方に通うのではなく――と言って説明した。
「住み込みで働いて欲しいの。報酬は勿論、今の倍を約束します」
   流石に即答出来なかった。そろそろ自宅を購入しようか――とパトリックと話していたところだけに。
「私達の代もあと少しです。フランツとユリアの結婚と同時に、夫と私は家のことからも手を引きます。はじめは大変でしょうけれど、その方があの二人にとっても良いだろうと思ってね。そうなった時、貴方には率先してユリアを助けてもらいたいの」


[2010.6.26]