庭に出ると、ハインリヒは元気良く歩き回る。フェルディナントがその後を追おうと少し駆け出す。
「フェルディナント。お前は走っては駄目だ」
   小さな腕を掴むと、フェルディナントは立ち止まる。可哀想だが仕方が無い。ハインリヒは危なげな足取りで四方八方を歩き回る。時々ぺたりと座り込んで、蟻に触れてみる。フェルディナントは何か見つけたようで、花壇に歩いて行った。
「父上! クレマチス咲いたよ!」
   フェルディナントが青い花を指差して言う。花の名前を憶えているのだろう。見てみると、濃紺の色をした花が開花していた。
「あとで母上に教えてあげなさい」
   フェルディナントは嬉しそうに頷く。それからさらに奥の花壇を眼に留めた。其方に行っても良いか問うフェルディナントに頷くと、フェルディナントは突然、走り出した。
「こら、フェルディナント!」
   側に居たエリクが慌てて追いかけて、その身体を引き止める。安堵していると、今度はハインリヒが何かを口に入れようとしていた。
「駄目だ、ハインリヒ!」
   慌てて駆け寄り、その手を払う。蛞蝓だった。危ないところだった――。
「ハインリヒ、口にいれて良いものと駄目なものがある。こんなものは絶対に口にいれては駄目だ」
   きょとんと見上げるハインリヒに注意していたところ、旦那様、とエリクに呼び掛けられた。
「フェルディナント様の息が少し上がってしまったので、御部屋にお連れします」
   下ろして、とフェルディナントはエリクから放れようとしていたが、確かに少し息が上がっていた。頬も少し赤い。おそらく走ったせいだろうが――。
「そうだな。頼む」
   フェルディナントはまだ遊ぶ――と言って、足をばたつかせた。エリクは暴れるフェルディナントを落とさないように慎重に抱いていた。
「フェルディナント。走っては駄目だと言った筈だぞ」
「だって……」
「口答えは駄目だ。お前は約束を破ったのだから、部屋に帰っていなさい」
   フェルディナントの眼から涙が溢れ出す。リビングルームの入口に近付くと、フェルディナントは声をあげて泣き出した。
   外に出て遊びたいのだろうが――。
   大声で泣く様子を見ると、此方まで胸が痛くなるが――。
   仕方が無い――。


   暫くハインリヒを遊ばせてから、リビングルームに戻った。フェルディナントはまだしゃくりあげていた。
「フェルディナント。お前は走ってはいけない身体なんだ。これからはきちんと言うことを聞かないと、散歩に連れて行かんぞ」
   ごめんなさい――と言いつつも、フェルディナントはまだ泣き止まなかった。ハインリヒは玩具で遊び始めたが、程なくして眠りに落ちた。遊び疲れたのだろう。フェルディナントはソファの上で絵本を広げたが、元気のない様子で悄げていた。
「エリク。今のうちに書類を。何か用があって来たのだろう?」
「はい。再来月の総会の日程ですが……」
   エリクと予定を話し合う。ふとフェルディナントを見ると、ソファに背を凭れさせて眠っていた。泣き疲れたのだろう。
「ブランケットをもう一枚お持ちしましょう」
   エリクはフェルディナントに気付いてそう言った。頼む――と告げてから、フェルディナントの側に移る。膝の上に置いたままの本を抜き取って、小さな身体を横たわらせる。
   少し熱いような――。
   額に手を翳すと少し熱を感じた。気付かなかったが、頬もまだ少し赤い。
   ハインリヒは向かい側のソファでぐっすり眠っている。この間に、フェルディナントを部屋に連れて行くか――。


   五時を過ぎた頃、ユリアが帰宅した。フェルディナントが発熱したことを告げると、すぐにフェルディナントの部屋に行き、様子を確かめた。
   フェルディナントは着替えさせベッドに寝かしつけていた。起きた様子も無いからずっと眠っているのだろう。
   フェルディナントの額に手を翳し、熱を確かめてから、ユリアは言った。
「きっとはしゃぎすぎたのね。咳も無いから、このくらいの熱なら夜には下がるわ」
「庭で散歩をしている時に少し走らせてしまった。それが悪かったのかと……」
「手を繋いでいなかったのでしょう?」
「え? ああ」
「手を繋いでおかないとルディは走り出してしまうし、ロイは石でも虫でも口に入れようとするの。散歩に連れて出てくれるのなら、言っておけば良かったわね」
   ユリアの言葉を聞いて納得した。
   そうだ。手を繋いでおけば良かった――。
「しかし……、フェルディナントを散歩に出しているとは知らなかった」
「最近になってからよ。はじめはロイだけを連れ出していたの。そうしたらルディがずっと窓辺で悲しそうに見ているものだから……。体調の良い時だけ15分ぐらい庭を散歩しているの」
   私達の声が五月蠅かったのか、フェルディナントが眼を覚ました。ユリアに気付いて、母上、と手を伸ばす。ユリアはフェルディナントを一度抱き締め、少し眠りなさい――と言った。フェルディナントはこくりと頷いて、眼を閉じる。
   やはり――、手慣れている。特にフェルディナントは私よりもユリアに懐いているから――。
   音を立てないようにそっと部屋を出て、ユリアはロイの居るリビングルームへと向かった。ロイはまだぐっすり眠っていて、起きる気配も無かった。身体からずれたブランケットをかけ直して、ユリアは私の隣に腰を下ろした。

「お疲れ様、フランツ」
「ユリアやアガタの苦労が解った一日だった。眼を放すと悪戯をするから、おちおち本も読んでいられなかった」
「あら。これでも大分手が放れたのよ?」
   ユリアは笑いながらそう言った。それからユリアは傍と思い出した様子で手帳を開いてから此方を見た。
「フランツ、来月、隣町で個展が開催されるのを知ってるかしら?」
「来月? いや」
「貴方の好きな作家さんだったわよ。息抜きに行ってきたら?」
   ユリアは場所を書き付けたメモをくれた。私は全く知らなかったが、確かに私の好きな画家の個展だった。
「ユリア。偶には一緒に……」
   不意に扉が開く。フェルディナントが部屋にやって来た。また眼を覚ましてしまったのか。どうしたの――と言いながら、ユリアが立ち上がる。お水が欲しい――とフェルディナントは言った。
「解ったわ。此処で待っていてね」
   フェルディナントはこくりと頷いて、ソファにやって来る。ロイが眠っている方のソファに行こうとしたので、此方においでと手を伸ばした。そしてその身体を抱き上げる。
「……熱が下がったようだな」
   額に手を翳してみても、先程のような熱は感じられない。どうやらユリアの言っていた通り、一過性の熱だったということだろう。
   ユリアがコップと水差しを持って戻ってくる。テーブルの上にそれを置いて、コップに水を注ぐ。フェルディナントはそれをこくこくと飲んでいく。

   この日はいつも以上に疲れ果てた。これなら職場で執務をしていたほうが疲れなかったと思うほど。
   それでも――。
   偶にはこういう日も悪くは無いと思った。

【End】


[2010.6.23]