18.子育て記録



   フェルディナントはもうじき三歳に、ハインリヒは二歳になる。そんな幼い子供が居ると、邸の中は一気に賑やかになるものだった。
   文字の書いてある積み木を楽しそうに積み上げていたフェルディナントが急に泣き出したので何事かと思ったら、ハインリヒが横合いからそれを崩したようだった。
「フェルディナント。泣くんじゃない。もう一度積み上げれば良いだろう」
   そう声をかけると、フェルディナントはしゃくり上げながら此方を見る。その隣ではハインリヒが積み木を口にいれようとしていた。
「ハインリヒ! 口にいれては駄目だ」
   読んでいた本を置き、ソファから立ち上がった時、フェルディナントがハインリヒから積み木を取り上げる。すると今度は、ハインリヒが泣き出した。
「お前には此方の玩具があるだろう」
   側に歩み寄って泣きじゃくるハインリヒの前にハインリヒの玩具を差し出す。しかしハインリヒはそれを投げて、さらに大きな声で泣いた。最近、どうもハインリヒが言うことをきかない。此方の言うことに全て反抗する。
「おいで」
   それでも手を差し伸べるとハインリヒは両手を前に出す。小さな身体を抱き上げて背を叩いてやる。そうしているとフェルディナントが僕も、と手を伸ばす。同じぐらいの年の子だとこういうことはよくあることだった。片手にハインリヒを抱えたまま、もう片方の手でフェルディナントを抱き上げる。二人分となると結構な重さがあった。
「……こうして二人一緒に抱き上げるのもそろそろ終わりだな」
   一人呟いて苦笑すると、フェルディナントがどうして?、と問い返してきた。
「お前もハインリヒも随分重くなったからだ」
「重い?」
「大きくなったからな」
   フェルディナントは重度の先天性虚弱のため、成長が少し遅れるかもしれないと危惧していた。だが、どうやらその心配は無用で、この年齢の子供よりも少し大きいぐらいにまで成長していた。大きくなったと言われると、フェルディナントも嬉しいようでにっこりと笑う。
   抱いていれば大人しいのだが――。
   これでは私が何も出来ないな。

   フリッツは仕事の調整をしている最中で、子供の世話に呼びつけるのは気が引ける。それにユリアとアガタが留守の間、子供の世話をすると言ったのはこの私だった。これほど大変だとは思わなかったが――。
   今日はユリアもアガタも留守だった。パトリックの親友が今日結婚式を開くため、パトリックとアガタは共に出掛けていた。一方、ユリアも大学時代の友人が帝都にやって来て、久々に会わないかと今朝連絡が入った。
   いつも子供達の世話をする二人に、一度に予定が入ってしまった。おまけに母上も先月から友人と船旅に出掛けている。
『私が外出を取り止めるわ。また会えるでしょうし……』
『偶には外に出て羽根を伸ばして来ると良い。大学時代の友人ということは10年ぶりなのだろう?』
『そうだけど……』
『子供の面倒なら私が見る。折良く私は休日だ』
『でも一人で面倒を見るとなると大変よ? やっぱり私が出掛けるのを取り止めた方が……』
『大丈夫だ。気にせず行っておいで』
   いつも子供のことばかりだから、偶には羽根を伸ばしてくるようにと、半ば私が背を押す形で、ユリアは出掛けていった。アガタも心配していたが、フェルディナントの具合が悪くなったら、フリッツに医師を呼んでもらえば良いし、そう大変なことも無いだろうと思っていた。


   甘かった。
   本を広げていても全く読み進められない。眼を放せばハインリヒが危ないところによじ登ろうとしたり、物を投げたりする。一時たりと眼が放せない。
   そのハインリヒが腕のなかで、お外、と窓の外を指差した。このリビングルームから外に出られる設計になっているから、よくハインリヒを連れて出る。フェルディナントはあまり外に出ない方が良いから、そういう時はユリアがこのリビングルームでフェルディナントの相手をする。今日はそのユリアが居ないから――。
「今日は散歩は駄目だ」
   お外、お外、とハインリヒは身を乗り出す。腕のなかから滑り落ちそうになって、慌てて抱え直す。
「駄目だ。今日は部屋で大人しくしていなさい」
   暴れ出したハインリヒを下ろすと、ハインリヒはとことこと窓に向けて歩き出す。窓をぺちぺちと叩いて、お外と騒ぐ。フェルディナントはその様子を凝と見ていた。
   フェルディナントが外に出ることの出来る身体なら、一緒に連れて行くことが出来るが――。
「ハインリヒ。此方で遊んでいなさい」
   ハインリヒはお外、とまた繰り返す。もしかしてユリアはこの時間に、庭を散歩しているのだろうか。だからハインリヒがこれだけ騒ぐのだろうか。
   ハインリヒが窓を開けようとする。窓は簡単には開かないような仕組みになっており、勝手に外に出る心配は無いが、窓を開けられないと解ったハインリヒはさらに窓をばんばんと叩き始めた。
「こら、ハインリヒ! 此方で絵でも描いていなさい」
   思わず声の調子を上げると、ハインリヒは大きな眼に涙を溜め始めた。しまった――と思った時は遅かった。一度は泣き止んだのにハインリヒはまた泣き出した。
「此方においで」
   手を差し伸べてもハインリヒは首を横に振る。お外、と繰り返す。
   参った――。
   フェルディナントを外に出す訳にはいかないし、ハインリヒは泣き止まないし、どうすれば――。

   扉を叩く音が聞こえ、応答すると執事のエリクが姿を現した。手には書類を携えていた。
「……お忙しい御様子ですね」
   エリクは苦笑しながら書類をテーブルの上に置いて、ハインリヒに歩み寄る。
「外に散歩に連れて行けと五月蠅くてな。フェルディナントを外に出す訳にはいかないからどうしようかと……」
「ちょうど散歩のお時間だからですよ。奥様はいつもこの時間に庭を散歩なさるので……」
   成程、そういうことだったのか――。
   ではフェルディナントをエリクに頼んで、散歩に行って来るか――。
「エリク。フェルディナントを頼めるか? ハインリヒを散歩に連れていってくる」
「はい。……フェルディナント様はお連れにならないのですか?」
「外に出さない方が良いだろうから……。待て、ユリアはフェルディナントも散歩に連れて行っているのか?」
   驚いて尋ねると、エリクはええ、と応えた。
「フェルディナント様の体調の宜しい時だけ、お連れになっています。15分ぐらいですが……。先日も庭のベリーを摘み取ってらっしゃいましたよ」
「そうだったのか……。知らなかった」
「つい最近になってからですよ。それまではアガタにフェルディナント様を頼んでらっしゃったので……。今日は具合が宜しいですし、一緒にお連れしましょうか?」
「そうだな。では少しだけ……」
   散歩に出よう、と促すと、二人とも眼を輝かせた。


[2010.6.23]