17.15回目の誕生日



「この時計……」
   部屋のなかを整理していたら、腕時計が出て来た。銀の時計の裏蓋に、H・R・Lと名前のイニシャルが彫り込まれている。決して派手な時計ではなく、どちらかといえば地味なものではあるが、よく見ると文字盤に周囲に精巧な彫り物が施されてあるのが解る。
   父上らしいデザインだと思う。
   士官学校の6年間はずっとこの腕時計を身につけていた。この腕時計は15歳の誕生日プレゼントで――。
「……懐かしいな」
   銀色がきらりと輝く。


   6月15日。
   15回目の誕生日を迎える6月15日、例年通りなら何のプレゼントを貰えるのだろうと心躍らせていたものだが、この年の誕生日は違った。
   一人で過ごす初めての誕生日で――、寂しさと落胆を抱えていた。
   誕生日には毎年、家族でパーティを開いてもらった。それが士官学校に入学し、寮生活の身となり、誕生日であっても帰宅出来なくなった。

   士官学校は寮生活で、休暇以外では余程のことが無ければ帰宅が許されない。週末も特別の事情が無い限り、帰宅は許されない。
   この年から6年間、誕生日を家族で過ごせないということになる。覚悟はしていたことではあったが落胆を堪えられなくて――。
   15歳の誕生日のことが思い返される。





   終業のベルが鳴る。学生達が机から立ち上がる。時計の針は6時を指していて、これから8時までは自由時間だった。この時間だけは、近くの町に出ることを許される。でも2時間では帰宅することも出来なくて――。

   部屋で大人しく本でも読もう――そう考えて、教科書とノートを纏めて持って立ち上がった。
「ロートリンゲン士官候補生」
   寮に戻ろうと教室を出た直後、担任に名を呼ばれて立ち止まった。身体の向きを担任に向け敬礼すると、担任は来客だ――と告げる。
「来客……ですか……?」
   誰だろう――。
   こんなことは初めてだった。担任はいつもより少しだけ穏やかな表情を浮かべて、荷物を置いたら一階の面会室に行きなさい――と言った。
   はい、と応えて荷物を一旦、寮に置きにいく。来客とは一体誰なのだろう。

   もしかして――。
   もしかしたらもしかして――。

   胸が高鳴る。期待してしまう。もしかしたら、父上か母上かルディが会いに来てくれたのではないかと――。
   同時に期待しては駄目だとも自分を抑える。もし違っていたら、あまりにがっかりしてしまいそうで――。

   逸る気持ちを抑えながら面会室に向かう。
   其処に居たのは予想通り――。
「父上!」
   窓越しに父上の姿が見えて、膨らんだ期待が破裂しそうになる。父上はソファから立ち上がって、変わりないようだな――と俺を見て言った。
「少し背が伸びたか」
「そうかもしれない。制服の丈が短くなったような気がするから……」
   すると父上は笑う。そして、さあ行こう――と俺に言った。
「え? 何処へ?」
「母上とフェルディナントも此方に来ている。8時までは自由時間だろう。折角の誕生日なのだから、一緒に食事を……とな。それとも友人と約束をしているか?」
   誕生日だから――。
   こうして来てくれたんだ――。帰宅出来ない俺のために、母上やルディも一緒に――。
「全然! まったく約束してないよ」
「そうか。ならば行こう」
   父上に促されて面会室を出る。途中、教官と会い、立ち止まって敬礼しようとする前に、教官の方が此方に向けて敬礼した。おそらく父上に対してだろう。父上は教官に敬礼を返す。

   父上は軍のなかでも偉い人だ――と、ミクラス夫人やフリッツがよく言っている。士官学校に入るまではあまり実感が湧かなかったが、ロートリンゲンという名を聞いた時の教官の態度の変化や今のように父上に対する態度から、父上が軍の上層部に居るということが、自分が考えていたよりもすごいことなのだと思うようになっていた。
   陸軍参謀本部参謀本部長――。

「……父上は偉かったんだなって最近になって解った」
「……ハインリヒ。階級や職名のみで評価を下すのは良くないことだ。今のこの国には別の側面がある。だから与えられた職に如何に取り組むか――、そのことで評価すべきこと。お前もよくそのことを学びなさい」
   父上の言葉は解るようで解らなかった。聞き返すと、父上は笑って、それは自分の肌で学び取ることだ――と俺に言った。


[2010.6.15]