子供は保育器の中で育てられることになった。
   束の間であっても保育器から外に出すことは出来なかった。ユリアも私も保育器に設けられている僅かなスペースから手を入れて、子供に触れることしか出来なかった。
   詳細な検査を受けた結果、子供は心臓と肺がとくに環境に影響を受けやすいことが判明した。呼吸機能が弱いため、外気に触れさせることが出来ず、もう少し状態が安定するまでは、外に出すことは――私達の手で抱くことは出来なかった。

   一室に集められている保育器は16台あった。うち1つが私達の子供のものだったが、16人の子供達のなかでも、私達の子供が重度の状態であることは明らかだった。殆どの子供達が、保育器のなかに入っているとはいえ、泣いたり手足を動かしたり出来、一日に何度かは保育器の外に出ることが出来た。保育器から一度も外に出すことが出来ず、鼻や口に管を挿し込まれ、泣き声ひとつ上げない私達の子供はあまりに弱々しかった。
   それでも――。
   私達の子供には違いなかった。どんなに身体が弱くとも、大事に育ててやれば良い、そう考えていた。
   それなのに――。
   その日の午後、医師は私とユリアに絶望的な言葉を浴びせた。
「御子様は重度の先天性虚弱で、成人まで生きられないかと……」
   成人まで生きられない――。
   眼の前に黒い幕を引き下ろされたかのようだった。




「フランツ、確りなさい」
   どうやって病院から屋敷に戻ったのかはよく憶えていない。部屋に戻ろうとすると、父と母が私をリビングルームに呼びつけた。母は厳しい顔で、私を叱咤した。
「第一子、それも男児が誕生したのです。貴方は父親となったのですよ。それなのに貴方はいつまでも沈んでばかりではないですか」
「母上……」
「先天性虚弱でも此方が配慮してあげれば、長く生きることは出来ます。それとも貴方はそんな弱い子供は要らないと言うの?」
   母は厳しい言葉を浴びせる。いいえ、と俯くと、母はさらに厳しい口調で言った。
「弱い子供は要らないというのなら、養子に出してしまいなさい。世の中には子供に恵まれない夫婦が沢山いるのですから」
「私は決してそんな意志はありません……!」
   自分の子を養子に出すなど考えたことも無かった。要らないと考えたこともない。ただ、虚弱であることがあまりに可哀想で――。
   いずれその子の死を見届けなくてはならないのかと思うと辛くて――。
「ならば何故、何の行動も起こさない? 子供をこの家に迎える準備も整えなくてはなるまい。それどころかフランツ、お前は子供に名も付けず、何をしているのだ」
「父上……」
「邸内に大気を浄化する装置を導入すれば、汚染物質が98%浄化されると言う。それを導入する必要があるだろう。お前はその手筈もまだ整えていまい。そんなことではいつまで経っても子供を連れ帰ることは出来んぞ」
   父の言葉は母と同様に厳しかった。そして確かにその通りだと思った。私は哀しみにくれるあまり、何もしていなかった。
「どんな子供であれ、この家の第一子には違いない。違うか? フランツ」
「……解って……います……」
「解っているならば行動しろ」
   その通りだ――。
   私はいつまでも現実を受け止められずにいた。逃避していた。
   だがそれでは――、何も始まらない。
   私から動かなければ。
   生まれてきた子供のために――。



   翌朝、すぐに病院へと向かった。ユリアは部屋には居なかった。何処に行ったのか――看護師に尋ねると、御子様のところですよ――と教えてくれた。
   ユリアは保育器の側に座っていた。保育器のなかに手を入れて、小さな手に触れていた。
「フランツ……」
「ユリア。起きていて大丈夫か?」
   ユリアは頷いて、ええと応えた。しかしまだ顔色が少し蒼い。無理をするな――と告げると、ユリアは子供を見つめて言った。
「こうしていると少しだけ指を握ってくれるの。泣かないけれど、ちゃんと生きてるんだよって伝えてくれているようで……」
   小さな五本の指は確かにユリアの指を握っていた。母親の手だと解っているのだろうか――。
「ユリア。この子を屋敷に連れ帰るための準備を始めた。邸内の空気を浄化する装置の設置をフリッツに頼んで来たよ」
「フランツ……」
「設置が終われば、この子を連れ帰ることが出来る。早く工事を進めるよう指示してきたから……」
「でも……、まだ保育器から出せないって……」
   ユリアは涙ぐみながら私を見上げる。きっと大丈夫――私はそう言って、ユリアと自分自身に言い聞かせた。
「保育器がどうしても必要なら、保育器ごと連れ帰れば良い。……医師の管理が必要だというのなら医師を雇う。トーレス医師に頼んでみる」
   ユリアは驚いて私を見つめ返した。それから涙を流しながらも、そうね――と笑みを浮かべて頷いた。
「そしてまずは名前を……。ずっと考えていた名前とは違うのだが……」
   ユリアが手を差し伸べている反対側から、私も手を差し入れる。頬に触れると少しだけ身体を動かした。
「フェルディナント……。ファーストネームをそう名付けたい」
「フェルディナント……? それは……」
   ユリアは気付いた様子で私を見つめた。この名前には私なりの意味があった。
「ああ。勇猛果敢と称えられた初代の名前だ。この子をお守り下さるように――、そして元気となった暁にはその名に恥じぬ立派な人物となるように……」
   当初はハインリヒと名付けるつもりだった。一族を統べるもの――その意味を持つ名前を与えるつもりだった。
   だが、この子に重責を担わせるような名前はあまりに哀れに思えた。むしろ家に守ってもらえるような名前にしたい。そこで、ロートリンゲン家の初代当主の名前を貰うことにした。
   フェルディナント。
   きっと、初代当主も守って下さる。
「フェルディナント……」
   ユリアは呼び掛ける。それからくすりと笑って、少し長いわね――と言った。
「……最近は短い名前が多いから時代に逆行してはいることは否めないが。……ああ、そうだ。ミドルネームはユリアと一緒に決めようと思っていて、まだ候補しか上げていないんだ」
「子供の頃はミドルネームで呼ぶって言っていたわね」
「ああ。私も子供の頃はヨーゼフと呼ばれていた」
   ユリアはフェルディナントを見つめ、愛しげにその身体に触れる。

「……ルディ」
「え?」
「ルディという名はどうかしら?」
   ルディ――。
   フェルディナント・ルディ・ロートリンゲン。
   良い名だ――。
「フェルディナント・ルディ・ロートリンゲン。決まりだな」
   聞こえたか――と子供――、ルディにそう呼び掛ける。声を出さない代わりに、私の手を少しだけ握った。


[2010.6.5]