片足をそっと前に出す。まだ足が震えていて、何かに捕まっていないとバランスを失ってしまう。
   一歩二歩進む。
   あと少し、もう少しだけ――。
   がくりと足が力を失う。頑張ってもまだ数歩しか歩けなかった。自力で立ち上がろうとしたところ、階段の下に居た父上が声をかけてきた。
「その様子だともう帝都に戻って良さそうだな」
「父上……」
   父上は階段を上がって側にやって来ると、両脇を抱え上げた。再び両足で立つと、片手を支えてくれる。
「ベンソン医師に相談して、帝都に戻る日を決めよう」
「本当に?」
「ああ」

   帝都に戻れる――。
   嬉しくて飛び跳ねてしまいそうだった。このマルセイユが嫌いではないけれど、帝都が懐かしい。嬉しさに一歩前に足を踏み出そうとした途端、またバランスを崩した。父上の手が身体を支え、抱き上げる。

「治った途端に怪我をしては元も子もないぞ」
   父上がこの身体を車椅子に座らせる。そうしてリビングルームに向かっていると、ロイが階段を駆け上がってきた。
「ロイ。もう少し静かに階段を上がりなさい」
「はあい。父上、ルディと一緒に散歩に行っても良い?」
「二人きりでは駄目だ。少し待ちなさい」
「ザカ少佐が連れて行ってくれるって。だから良いでしょう?」
「ザカ少佐が? お前はザカ少佐にまで我が儘を言ったのか」
   少し待っていなさい――と父上は言って、階段を下りていく。ロイはもうちょっとで歩けるね――と僕を見て言った。
「うん。ロイ、僕が元気になったら遊ぼう」
「うん!」
   ロイは嬉しそうに勢い良く頷く。そのところへ、父上が階段を上がってきた。

「ね、父上。ザカ少佐が連れて行ってくれるって言ってたでしょう?」
「ああ。だが、二人とも、ザカ少佐の言うことをきちんと聞いて我が儘を言うのではないぞ。特にハインリヒ」
   父上の後ろからザカ少佐が上がってくる。父上が僕の身体を抱き上げて、ザカ少佐が車椅子を持ち上げた。ザカ少佐はロイと僕を散歩に連れて行ってくれた。






   ザカ少佐は年の離れた兄のような人だった。
   マルセイユを離れて帝都に戻る日、私は彼との別れを惜しんだ。彼は早く良くなるように――と優しい笑みを浮かべて、それから敬礼をした。
   帝都に戻り、ひと月が経つ頃には私は完全に快復して、元通りの生活を営むようになっていた。学校に通うことは出来なかったが、暫くはそれをせがむのを止めた。そしてジュニアスクールに通える年が終わりを告げようとした時、反対されるのを覚悟のうえで、思い切って両親に高校に行きたいと打ち明けた。
   その願いは、漸く――叶った。



「ただいま……あっ!」
   ノックの音も無く扉が開き、ロイが現れた。ロイは制服のネクタイをかなり緩めていた。
「制服が届いたんだ? グリューン高校の制服、こんな間近で見るのは初めて……」
「ロイ」
   いつも家に帰ってくるなり、ネクタイをそうして緩めておく。上着を脱ぎながら、階段を上るものだから――。
「着替えるなら先に着替えてらっしゃい。中途半端な格好が一番見苦しいわよ」
   母上に叱られる。父上がこの場に居たら、すぐに拳骨が飛んできただろう。ロイが言い返そうとすると、母上が毅然と見据える。ロイははい、と素直に言って足下に置いた鞄を持つ。部屋を去る間際、私の方を見て言った。
「あとで僕にも着させて、ルディ」
「解った」
   ロイはそれを聞き届けると弾むような足取りで、階段を駆け上がっていく。いつも通り、階段を一段飛ばしで――。ミクラス夫人がすぐさま部屋を出て、ハインリヒ様、とそれを注意する。
「ロイは階段から落ちてみないと止めないでしょうね」
   母上は溜息を吐きながら言った。
「一度ぐらいでは諦めないと思うよ」
「まったくその通りね」
   母上は私の傍らから立ち上がると、部屋を出て、ロイときつい声で呼び止めた。

   鏡の中に制服姿の私が映る。再来週から学校が始まる――。
   4年前には考えられなかった。辛い日々だった。
   でもあの時に、気付いたことも多かった――と今になって思う。

【End】


[2010.4.24]