「ルディ。散歩に行きましょう」
   マルセイユでは一日に一度は外に出て、森のなかの空気を吸った。いつもはパトリックが連れて行ってくれる。今日はパトリックに急な仕事が入ったようだった。管財人であるパトリックは忙しいことがあって、そういう時は母上かアガタが散歩に連れていってくれる。母上は車椅子を押して、玄関に向け歩き出した。
「奥様。お電話が入っております」
   アガタが母上を呼び止める。少し待っていてね――と僕に言ってから、母上はアガタの許に行った。廊下で暫く待っていても母上はなかなか戻って来なかった。もしかしたら用事でも入ったのかもしれない。
   母上は文化団体や慈善団体の活動を支援していることもあって、いつも屋敷に居るといっても忙しいことも多い。このマルセイユに来てもそうした団体からの電話がかかってきていたから、何となくそんな感じがした。

   少しぐらいなら外に出て良いかな――。
   そう考えて、車椅子を前進させるボタンを押す。これぐらいなら自分でも出来る。車椅子はゆっくりと進み、玄関の扉の前で止まった。腕を上げるとまだ震えがあるし、まだあまり力が入らない。精一杯手を伸ばしてノブを掴み、それを回す。何回か繰り返してやっと成功した。

   扉を開けると、花壇が見える。母上が来るまで外の花壇の前で待っていようと思った。
「あ……」
   進もうとしてすぐに車椅子は止まる。よく見ると、玄関から外に出るには階段があった。車椅子の機能が危険を察知して、自動的に前進を止めた。これでは先に進めない。仕方が無い。此処で待とうか――。

「どうかなさいましたか?」
   足音が聞こえたと思ったら、父上の部隊の隊員だという――確かザカ少佐が、側にやって来た。
「外に出ようと思ったけど、階段があって……」
「お一人で?」
「母上を待っているんです。でも少し時間がかかりそうだから、あの花壇の前で待とうかと思って……」
   ザカ少佐は成程、と微笑んで、では私が花壇までお連れしましょう――と言った。軽々とこの身体を抱き上げて、玄関脇に置いてある椅子へと座らせる。そして、車椅子を抱えて階段の下に置く。再び僕の身体を抱き上げて、車椅子の上に戻す。
「ありがとうございます。ザカ少佐」
「名前を憶えていただき光栄です。フェルディナント様」
   ザカ少佐は話しながら、車椅子を押して、花壇の前まで連れてきてくれた。その時、母上がやって来た。
「ザカ少佐、すみません。ルディ、急に居なくなるから吃驚したわよ」
「ごめんなさい。母上」
「ルディ、悪いけれどお散歩はもう少し後になりそうなの。お部屋で待っていてくれる?」
   やっぱり急な用事が入ったのだろう。きっとまだ電話の最中に違いない。
「うん、解った」
「あの、もし宜しければ、私が散歩にお連れしましょう」
   ザカ少佐が母上に申し出る。母上は少し戸惑った様子で私を見た。
「軍の方に此方の警備を務めて頂いていることも心苦しいのに、そのようなことまで頼んでは……」
「構いません。散歩のルートはちょうど警備区域です。一時間ほど森を回ってきますよ」
「ご迷惑ではありませんか?」
「まったく。フェルディナント様に何かあれば、携帯電話から御屋敷にすぐお電話します」
   母上はありがとうございます、と微笑んで言った。
「よろしくお願いします。ルディ、きちんとザカ少佐の言うことを聞くのよ」
   頷き応えると、母はザカ少佐にもう一度、お願いします、と言って扉の方に足早に戻っていった。
「では行きましょうか」





   この時の私は知らなかったが、トニトゥルス隊といえば陸軍屈指の特殊部隊で個人の護衛には勿体ないほどの人々だった。しかし父上が連れて来た三人の隊員達は、そうしたことは一切口にせず、いつも私達を守ってくれた。
   ザカ少佐は三人のなかでも一番若い人物で、人当たりの良い青年だった。当時の彼は一昨年、士官学校を卒業したばかりで、父上の部隊に配属となったとのことだった。いつもと違うこの時の散歩は楽しくて、それ以来、私はザカ少佐と顔を合わせるたび話をした。子供の他愛の無い話であっても、ザカ少佐は車椅子の私と目線を合わせてから、きちんと話を聞いてくれた。

   そして、週末には父上とロイがマルセイユまでやって来た。そうした生活がひと月続いて、その頃には私は何とか支えを持って立ち上がれる程にまで、回復していた。


[2010.4.23]