ついに声が出なくなったというのに、父上は森へ散歩に連れていってくれたり、海に連れて行ってくれたりした。此処は空気も綺麗だから、風を一杯浴びなさい――そう言って、帝都に居る時とは正反対に、外に連れ出してくれた。
   外の風は心地良かった。
   海の風は独特の香りがした。
   心地良いのに、それでも具合を悪くすることが度々あった。夜中に急に苦しくなって、ベンソン医師に来て貰ったこともある。母上がずっと手を握って呼び掛けてくれていたこともあった。

   だが、不思議なことに――。
   一週間が経った頃、声が戻った。もう二度と喋られないと思っていたのに、声が出るようになった。
   そして、本当に少しずつではあったが、症状が和らいでいった。胸が苦しくなることも無くなってきた。ベンソン医師は回復しつつあると言ってくれた。

「ルディ!」
   少しずつでも回復しているのが解って嬉しくなる一方で、ロイは相変わらず暢気に遊んでいて――。
   それはやはり羨ましかった。
「見て! 貝、拾ってきたよ」
「ロイ……」
   ロイはふたつの貝を僕に見せる。大きい方の貝は海の中から取ったんだよ、と嬉しそうに話し出す。
   こうなるとやっぱり口惜しくて――。
「……ロイ、休みたいから出ていってくれる?」
「ルディ……」
「騒がれると頭が痛くなるんだ」
   ロイはしょんぼりと項垂れた。
   その時になって、言い過ぎたことに気付いた。僕は何て意地悪なことを言ったのだろう――。ロイにだって悪気は……。
「ごめんね、ルディ。これ、ルディにあげるから……、具合が良くなったら眺めてね」

   謝らないと――。
   解っているのに謝ることが出来ない。ロイは元気だから、僕のことなど理解出来ないんだ――と意地を張ってしまう。ロイを傷付けているのに――。

   ロイが部屋を去ってから枕から顔を出すと、ロイが置いていった貝が見えた。
ロイは大きな方の貝を置いていった。小さな貝を自分のものにしたのだろう。大きな貝を僕に寄越すなんて――。
   ロイは、決して自慢するために僕に見せた訳じゃない。純粋に僕に見せるために――、持って来ただけで――。



   自分の心の狭さに気付かされたのもこの時だった。自分の身体のことは誰に責任がある訳でもなく、またそのことで他人を僻んでもならない。子供の頃、そのことで父に酷く叱られた理由が、よく解った。
   私はロイを傷付けてしまった。しかもその時ばかりではない。ロイをずっと避けてきた。ロイを見ていると羨ましくなるから――、口惜しくなるから――と。自分のことばかりで、ロイのことを思いやってやれなかった。



   ロイが去ってから暫くして、父上が部屋にやって来た。先刻のことをロイが告げ口したのだろうか――と思った。ところが、父上は下に降りるぞと言って、この身体を抱き上げた。
「……父上」
「何だ?」
「ロイ……は……?」
「もう下で待っている。喧嘩でもしたのか」
   黙り込むと、父上はこの身体を車椅子に座らせて、それを押しながら言った。
「お前は都合が悪くなると黙り込む。ハインリヒに悪いことをしたのなら、きちんと謝りなさい」
   父上は階段の前まで車椅子を押し進め、それからまた身体を抱え上げた。パトリックがすぐに駆け寄ってきて、車椅子の方を持って下りて行く。

   リビングルームには、ロイと母上が待っていた。ロイは僕が部屋に入ると、すぐ振り返ったが、いつものようには駆け寄ってこなかった。
   謝らないと――。
「ロイ……」
   呼び掛けると、ロイは何、ルディといつもの様子で問い返してきた。
「先刻はごめん……。貝、ありがとう」
   本当はもっと随分前からのことを謝らなくてはいけなかったのに、先刻のことを謝るのが精一杯だった。どう言って良いか解らなくて――。
   ロイは何て言うだろう――。
「貝、見てくれた?」
   ロイは嬉しそうにぱあっと表情を明るくする。何処でその貝を取ったのかとか、海の水が冷たかったとか、次から次へと語り出す。



   私はこの時、羨ましさよりも、安堵した。今迄の自分が愚かしく思えてきた。この時以来、ロイに対して嫉妬心を燃やすことは無くなった。何かがすとんと自分のなかに収まったようだった。


【End】


[2010.4.21]