「……お気持ちは解りますが、今のフェルディナント様を長時間移動させることは……」
   翌日、トーレス医師に面会したいと約束を取り付けて、仕事を終えてから、トーレス医師の所属する第七病院へと向かった。

   フェルディナントをマルセイユに連れて行きたい――。
   彼にそう告げると、トーレス医師はフェルディナントの身体では無理だと言葉を返した。

「昨日、フェルディナントを少し外に出したら空を凝と眺めていた。あの子は殆ど外に出ていない。身体が弱いから外に出してはならない……と、あまり外に出してこなかった。だがあの様子を見ると、それが間違いだったのではないかと思えてならない」
「昨日のことは奥様から伺いました。今日の診察の折、フェルディナント様が少し咳をなさっていたので……。旦那様のお気遣いも解りますが、フェルディナント様のお身体は昨日のようなほんの僅かな散歩でも弱ってしまいます。大気中の汚染物質に敏感に反応なさいます。確かにマルセイユなら、帝都よりは空気は澄んでいるでしょう。フェルディナント様の病状が好転する可能性が無い訳ではありません。ですが、帝都からマルセイユまでの長い道程を、今のフェルディナント様が耐えられるとは思いません」
「……トーレス医師、貴方に主治医として付き添っていただいたとしても?」
「フェルディナント様のお命を保証出来ません」
「万一の事態を……、覚悟していると言ってもか?」
「旦那様……」
「このまま投薬を続けたとて、フェルディナントが快復する見込みも薄い。それに、フェルディナントの体質の原因が環境にあるというのなら、此処よりも環境の良いマルセイユならば快復する可能性が少しはあるかもしれないと希望を持ちたい。……何よりも、あの子に思い切り外の空気に触れさせてやりたい」
   このままでは、フェルディナントはただ命が終わるのをベッドの上で待っているだけだ。
   命数が短いのならば――。
   もう手の施しようが無いのならば――。
   外の空気を吸わせてやりたい。蒼い空を心ゆくまで見せてやりたい――。

「……マルセイユで治るという保証もありません」
「解っている。このまま投薬治療で治るというのなら、私もこんな提案はしない。だがフェルディナントは……」
   トーレス医師は暫く考え込んだ。
   そして、何とか許可を貰った。



「マルセイユに!?」
   帰宅してから、ユリアにマルセイユに行くことを告げると、ユリアはすぐさま反対した。フェルディナントの身体が長時間の移動に耐えられる訳が無い――と。
「トーレス医師から許可も貰ってきた。マルセイユまで彼に同行してもらう。そしてマルセイユにはベンソン医師が居るから、其処での治療はベンソン医師に任せる。トーレス医師から連絡を取って貰い、フェルディナントの病状を伝えてもらうことにした」
「フランツ! ルディがマルセイユまでの移動に耐えられると思っているの!?」
   ユリアは声を荒げる。予想していたことだった。ユリアは断固として反対する――と。
「ユリア。このままでもフェルディナントが快復するかどうかは解らない。二ヶ月前のことから思い起こしてみろ。倦怠感にはじまり動けなくなって、ついには呼吸も出来なくなった。そして今となっては心臓が弱り始めている。今のフェルディナントには薬が効かない」
「だからといって死期を早めて構わないとでも!? 昨日のたったあれだけの散歩でもルディは咳込んで、今日もそれが続いていたのよ? フランツ、ルディをマルセイユに連れて行くのは絶対に反対です」
「いや、連れて行く。マルセイユに居る時は、フェルディナントはあまり体調を崩さない。それは、マルセイユの環境がフェルディナントを癒してくれているということだ。ハインリヒの学校が休暇となり次第、私も休暇を取る。パトリックとアガタにも同行してもらう。そのように準備を整えてくれ」
「フランツ! 私は反対です」
   ユリアは尚も反対する。強い視線で私を見つめる。
「ユリア、昨日のフェルディナントを見ただろう。凝と空を見つめていた。……私達はこれまであの子を自由にさせなかった。それで長く生きられるのなら、と考えてな。もしこのまま心臓が止まったとしたら、あまりに不幸なことだ」
「それは解っています……。でもだからといって、こんな状態の時に外に出したら、ルディは……」
「移動には細心の注意を払う。トーレス医師にも同行してもらうんだ。何かあれば付近の病院に入院させる。……ユリア、たとえフェルディナントの命が短くなったとしても、フェルディナントにあんな悲しい表情で死んでほしくないんだ。……お前も気付いているのだろう?」
   このところのフェルディナントは表情を――、特に眼の輝きを失っている。それが昨日、空を見た時、少し輝きを取り戻したように見えた。だからこそ――、マルセイユ行きを決断した。

「……覚悟しろと言うのね……」
「……私には自信があるんだ。マルセイユでの転地療養で、フェルディナントが快復するかもしれない、とな」
   ユリアは渋ったが、最後にはマルセイユ行きを了承してくれた。

   ハインリヒの学校が休暇となり次第、マルセイユに赴く。アガタも反対したが、結局は私の意志に従ってくれた。
   マルセイユに行くということで、ハインリヒは海に行けると喜んだ。フェルディナントは――。

「僕……も……?」
   驚いて問い返してきた。そうだと返すと、フェルディナントは何か言いたそうな表情をする。
「トーレス医師にも同行してもらう。移動中の休息も多めに取るから、心配することは無い。お前も外を見たいだろう」
   その時、フェルディナントの表情が変わった。嬉しそうな表情を浮かべ、少しだけ頷いた。

【End】


[2010.4.18]