10.学校編【1】〜父の覚悟



「フェルディナントはまた部屋から出て来ないのか?」
「ええ……」
   数日前から、フェルディナントはリビングルームに姿を現さない。此処に来るのを、具合が悪いと言って拒み続けていると言う。人工呼吸器を装着されてからは、それまで以上に元気が無かった。今日も出て来ないとは――。
「部屋に篭もりきりも良いことではない。連れて来る」
「僕も行く!」
「フランツ、今はそっとしておいてあげて」
   ユリアが何か言いたそうに此方を見上げる。ハインリヒは既に私の足下で、ルディの許に行こうと促していた。
「ロイ、ルディは少し具合が悪いから今日は寝かせておいてあげてね」
「駄目なの?」
   ユリアに言われ、ハインリヒは不満そうな顔をする。ユリアは頷いて、また明日ね、と諭すように告げる。
「ハインリヒ。学校の宿題は済ませたのか?」
「う……うん」
   嘘だ。嘘に決まっている。眼が泳いでいるではないか。
「嘘を吐くな。まだ済ませてないのだろう。自分の部屋で済ませてきなさい」
   後でやる、というハインリヒをひと睨みすると、ハインリヒは返事を残してこの部屋を去っていく。アガタを呼び、ハインリヒの勉強を見張ってもらうよう頼んでおいた。ユリアはその時、ロイをルディの部屋に行かせないようにして、と告げる。

「何かあったのか?」
「相当参っているみたいで……」
「部屋から出て来ないのはそのためか」
「あのルディが大泣きしたのよ」
   ユリアがフェルディナントの部屋に行った時、フェルディナントは声を押し殺して泣いていたらしい。どうして僕だけが、と。そして学校に行けないことに対しても。
「……学校どころではないだろう。今の身体は……」
   フェルディナントの身体は学校に行けるかどうかという問題の前に、明日も生きられるかどうかという深刻な状態に陥っている。呼吸停止までの進行があまりに早くて、このままではいつ心臓が停止するか解らないと、トーレス医師に宣告されている。そんな身体だというのに――。
「……生きていられないかもしれないって、ルディは気付いているのよ……」
   フェルディナントは聡い子だ。此方が病気のことを隠していても、周囲の反応で気付いたのかもしれない。
「今日の診察でトーレス医師は何か言っていたか?」
「心臓にはまだ異常は無いって……。でも突然ということもあるからと……」
   ユリアは俯いて、涙を流した。隣に腰を下ろし、その身体を抱き寄せる。私の胸のなかで、ユリアは泣き崩れた。
「あの子だけ、どうして……」
「ユリア……」
「歩くことも、食べることも出来なくなって、呼吸すらも……。何故、あの子だけがこんな目に……」


   フェルディナントの具合は一向に良くならなかった。
   薬がまるで効かない。強い薬を使うと、今度はフェルディナントの身体が副作用を起こして衰弱する。何度も薬を変えた。トーレス医師も尽力してくれたが、フェルディナントの病状に改善の兆しは見られなかった。
   そしてついに、心臓が弱り始めた。発声すらも苦しそうで、寝たきりの状態になった。それでも出来る限りリビングルームに連れて来るようにした。そうでなければ、フェルディナントは一人で篭もる。そうなると物事を悪い方向にしか考えなくなるから、治るものも治らなくなる。

   この日もフェルディナントを半ば強引に、リビングルームへと連れてきた。フェルディナントは私とあまり顔を合わせたく無さそうに、何度か視線を逸らした。動くことの出来ないフェルディナントとは対照的に、ハインリヒは元気良く部屋を動き回っている。フェルディナントがその様を見つめる時、酷く悲しい顔をしていた。
   確かに今のフェルディナントに、ハインリヒの姿を見せるのは残酷かもしれない。だが、一人で部屋に篭もることの方が、余程酷なことに私には思えた。

   フェルディナントはリビングルームから外を眺めていた。このふた月あまり、フェルディナントは外に出ていない。
「……フェルディナント。少し外を散歩するか?」
   私がそう告げると、フェルディナントは驚いたような顔をした。今となってはあまり表情も無いが、驚いた様子だということは解る。
「フランツ、外は……」
   ユリアが駄目だと言わんばかりに困った顔をする。フェルディナントの体質は環境が原因だから、あまり外に出てはならないと、子供の頃から医師に言われてきた。
   そんなことは解っている。だが――。

「少しぐらいなら気晴らしになる。太陽の光も少しならば影響は出まい」
   フェルディナントの身体をソファから抱き上げて、車椅子に座らせる。身体から伸びている人工呼吸器や管の一式を車椅子に取り付けてゆっくりと動かすと、ハインリヒが窓を開けた。

   外に出ると、フェルディナントの眼は庭を一望してから、空を見上げる。ユリアがすぐに日傘を持って出て来る。そしてフェルディナントの上に日傘を翳した。
「ユリア。それでは空が見えなくなる」
「強い陽射しの下に出ては駄目だと、トーレス医師が仰っていたではありませんか」
「五分ぐらい大丈夫だ。空を見せてやれ。こんな良い天気だ」
「フランツ……」
「大丈夫だ。そうだろう? フェルディナント」
   フェルディナントがゆっくり頷く。ユリアが傘を畳むと空を凝と見て、蒼い、と一言呟いた。


   ああ――。
   この子は――。
   考えてみたら、こうして空を見ることもあまり無かった。
   いつも家のなかで――。

   ゆっくりと車椅子を進めていく。ハインリヒが側にやって来て、虫を捕ったと嬉しそうにそれを見せる。ハインリヒはまた木の下に走っていく。
   フェルディナントのそうした姿を、一度は見てみたいものだと何度思ったことか――。この頃は少しずつ元気になってきたと思っていたところだったのに、こんな状態になるとは――。

   病気が発覚した時、トーレス医師は薬で治ると言っていた。ところが、その薬はフェルディナントには一向に効き目がなく、病状は日増しに悪化していった。自力で呼吸が出来なくなった時、トーレス医師は最悪の事態を覚悟するように言った。薬の効き目がこのまま表れなければ、一年保つかどうか解らない――と。
   フェルディナントはまだ11歳になったばかりだった。まだそれだけしか生きていない。それなのにあと一年保つかどうか解らないとは――。

   成人を迎えるまで、生きられるかどうか解らないとは言われ続けてきた。たとえそれを乗り越えたとしても、40歳までしか細胞が耐えられないということも解っている。
   だが11年で生涯を閉じるにはあまりに――短すぎるではないか――。
   命を大切にするように、出来るだけ長く生きられるようにと、身体を労り、外出も控えさせてきた。だから学校にも行かせなかった。

   だがこんなことなら――。
   たとえ命数が短くなったとしても――。
   自由に好きなことをさせるべきだったか――。

   フェルディナントが少し咳込む。ユリアがそっと胸を摩った。
「フランツ」
「解った。そろそろ家に入ろう」
   フェルディナントは凝と空を見つめていた。窓からリビングルームに入るその時まで、ずっと。


[2010.4.18]