父は亡くなる前日、母と俺のことを話していたらしい。士官学校でうまくやっているようで安心した――と父は言っていたようだった。だが一言――。
   出来れば、大学の文学部に行かせてやりたかった――と、残念そうに言っていたのだと言う。
   当初、父は文学部への進学に反対していた。大学に行くならば、工学部に行けと。そのことで何度も喧嘩した。
   そんな父が、俺のことをそう考えていてくれたというだけで、俺には充分だった。
「ジャン。此処に居たのか」
   工場の父の定位置で佇んでいたところ、ロロ小父さんがやって来た。
「……あの日、此処で急に胸を押さえて倒れ込んだんだ」
「小父さん達が居てくれたから、俺はまだ暖かい父さんに会うことが出来たんだ。ありがとう、ロロ小父さん」
「礼を言われることは何も無い。口惜しくてならんよ、まだ若いのに……」
   ロロ小父さんは花を捧げてあるその場所に膝をついて、胸の前で十字を切った。
「フィリップは働き者だったからな。この御時世にあって、この小規模な工場が保っていたのも、フィリップが働き者だったからだ」
「……父さん、少し痩せたよね。前の休暇の時にそう言ったら、忙しいからだって言ってたけど……」
「ああ。食も細くなったから病院に行けとお前の母さんは促したらしいが、行かなかったらしい」
「……父さん、頑固だったからな」
「まったくだ。早く治療受けていればこんなことにならなかっただろうに……。ジャンの嫁も子供も見ていないだろうに、フィリップの馬鹿が……」
   ロロ小父さんは立ち上がると、機械に電源をいれた。ゴトンゴトンと聞き慣れた音が工場内に響く。そして、いつも通り作業を始めた。
「小父さん……」
「やりかけの仕事がある。これを終えて今日中に全製品を出荷する。……仕事を中途半端にするのはフィリップが一番嫌がったことだからな……」
   機械を動かしながら、ロロ小父さんは此方に背を向ける。そっと眼を拭ったようだった。
「……ジャン。明日までに工場を停止させるから、お前が廃業手続きを行ってくれ。ジョセフィは……お前の母さんは気落ちしているから、それを頼むのも気が引ける」
「……解った。……ごめん、小父さん」
   工場を継がないと決めた時、ロロ小父さんやトム小父さんが誰よりも反対した。小さな工場だからこそ、後世に残しておくものだ――と父を説得した。だが父は、時代遅れだと言って、自分の代での廃業を決めた。
「謝らなくて良い。フィリップが言っていた通り、殆どの工場が企業に買収されているんだ。このなかで生き残っていくのは大変だ。フィリップはそのことを考えて、自分の代での廃業を決めたのだろう」
   ゴトンゴトンと規則的に動き続ける機械の音を背で聞きながら、工場を後にした。隣の自宅では母が父の写真を見つめて座っていた。母さん――と呼び掛けると、母は振り返って、無理矢理笑みを浮かべる。
「大丈夫よ、ジャン。私も確りしなくちゃね」
「俺、来週までは此処に居るよ」
   確かに憔悴した母に全て任せることは出来なかった。

   翌日から、ロロ小父さんとトム小父さんが工場のことを任せ、俺は事務手続きを行った。厖大な書類の記入を求められたり、完全に工場が停止したかどうか市役所の担当員が確認に来たりと慌ただしい毎日が過ぎ去っていき、何とか士官学校に戻る前日迄にはそれら全てに片が付いた。
「困ったことがあればいつでも連絡しろよ、ジャン。お前は俺の孫も同然だからな」
   ロロ小父さんとトム小父さんがそう言ってくれた。そしてロロ小父さんの妻であるマリアンヌ小母さんも時々、家の様子を見に来てくれた。
「ジャン。お母さんのことは心配しなくて大丈夫よ。うちはすぐ側だから何かあれば此処に来るからね。貴方は確り学校で勉強してらっしゃい」
   この頃には母も大分落ち着きを取り戻していて、俺も安心して帝都に向けて出発出来た。

   士官学校に戻って来た俺を待ち受けていたのは定期試験で、後半の講義を聞いていない俺にはかなり厳しい状況だった。クルマンにノートを見せてもらい、必死に遅れを取り戻した。休んでいたことを口実に甘えてはならないと思った。父はそういうことを嫌う人だったから――。
   中途半端は許さない。一度決めた道ならばそれを突き進め――。
   父からいつも言われてきたことを、この時ほど思い出したことは無かった。
「おい、あいつ学年トップだったらしいぞ。後半休んでいたのに……」
   逆境にも負けなかったことを自分で誇りに思い、またリヨンに戻った時、父の墓前にそれを報告した。よくやったと告げる父の声が何処からともなく聞こえて来るようだった。





   二年の春になると新たな授業が始まった。シミュレーション演習という名の授業は、学生を士官に見立てて組分けし、そのうえで互いの戦略を競うというものだった。組分けでは上級生が上官となる。この授業が課せられる二年生から四年生までの学生全員による演習もあれば、二年生と三年生のみでの演習もある。一年生の時は上級生のシミュレーション演習をただ見学していた。なかには鮮やかな戦法で勝ち進む組もあった。
   初めてのシミュレーション演習では、二年生と三年生のみで組分けすることになった。
   この組分けは成績ごとに教官が決めるのだと聞いている。またこのシミュレーションでの成果が後の入省時の部局分けにも関係づけられるという噂もある。したがって、皆、やる気を漲らせていた。
「ではまず組分けを発表する。名前を呼ばれたら、ボネット教官の指示に従い、グループごとに整列」
   三年生の名前から読み上げられる。十人ずつ名前が呼ばれ、そのなかでの役割も指定される。俺には一体どんな役割が回ってくるのだろう――そう思っていたところへ、名前が呼ばれた。
「ジャン・ヴァロワ士官候補生、Dグループ、指揮官補佐」
   指定された通り、Dグループの列に行く。見たことの無い上級生ばかりだった。AからIまでの10グループが出来、各グループの人数は9人から10人で編成されていた。対戦表が提示され、これから二時間、グループごとに戦略を練り、その後、実際にシミュレーターを利用した演習が行われることとなった。
「まずは自己紹介としようか。今回指揮官役を務める三年生のノーマン・ザカだ。よろしく」
   俺は指揮官補佐だから、彼の補佐を務めるということか――。
   穏やかそうな人物で、彼は三年生から順に自己紹介させていく。驚いたことには、一度聞いただけで、各人の役目を全て把握していたことだった。
「では次は二年生。指揮官補佐役の君から自己紹介を」
   無難に自己紹介し、次へと繋ぐ。そして20名全員が自己紹介を終えると、指揮官役の彼は紙を配って言った。
「これから三十分の間、各人で戦法を考えてほしい」
   シミュレーターでの自然状況や相手側の人員について、彼は軽く説明する。それらを踏まえて、一人一人が戦法を考え出さなければならなかった。
   面白いが、だが難問だ――。
   真っ白い紙を見つめて、考えを巡らせるうちに時間が過ぎていく。三十分では時間が足りなかった。
   否――策ならいくらでもある。だがその策が有効かどうか、判断材料が少なすぎる。
「何も書いていない者が居るが……、まずは思いつく策を書いてみると良い」
   十五分が経過した頃、指揮官役のノーマン・ザカがそう言った。俺の手許を見ているようだった。
「……その策が有効かどうか、判断しかねるものでも構わないのですか?」
「この時点では情報が少なすぎて有効かどうか判断がつかないだろう。兎に角、今は思いつく作戦を練ってみてくれ」
   成程、それならば――。
   白紙にさらりと策を書き付けていく。残り十五分の間、書けるだけの作戦を書き上げた。大まかには六つの作戦が考えられた。それを書き終えたところで、時間が来た。
「では今から各自に作戦を説明してもらう。まずはバールから」
   座ったテーブルは円形で、指揮官役の彼の隣に座る三年生から順に発表していく。その順序での発表となると、指揮官役の隣に座っている俺は最後となる。三年生の発表は全て俺の紙の一案から四案のなかにあるものだった。二年生の発表も、三年生のそれらに追随するものばかりだった。
「では次、ヴァロワ。君の案は?」
「これまでの発表で掲げられた四つの案に加えて、あと二つの案を提示します。ひとつは……」
   用兵学の本に記載されていた典型的な作戦法をひとつと、それを応用した策をひとつ発表した。
「二年生で六つの策を出してくるとは新記録だな」
   向かい側に座っていた三年生の一人が驚いた風でそう言って、隣の三年生と語り合った。その彼等が隣の指揮官役の三年生に向かって問い掛ける。
「ザカ。お前は? 用兵の得意なお前はいくつ浮かんだ?」
「彼と同じ六つだ。それも彼とまったく同じ策で」
   指揮官役のノーマン・ザカは此方を見て笑みを浮かべた。そして彼は最後にひとつひとつの作戦の利点と欠点を発表していった。


[2011.12.28]