「ヴァロワ士官候補生、訳してくれ」
   瞬く間に時が過ぎていった。常に成績トップということは無かったが、今のところ、毎回、成績優秀者には選ばれている。士官学校での厳しい講義と生活、そして魂の休息の時間ともいうべき実家で過ごす休暇――意外にも均衡は取れているようで、俺はそれなりに充実した生活を送っていた。
「宜しい。綺麗な訳だ」
   語学や文学、それに用兵の科目は常に首位を維持していた。辞書を引きながら読んでいた原書も殆ど辞書の助け無しで読むことが出来るようになっていた。特にビザンツ語については難無く操ることが出来る。
「では今日の講義は終了だ。来週分を訳しておくように」
   ビザンツ語の教官は定刻通りに講義を終えて、教室を去っていった。


「ヴァロワ。ビザンツ語の講義の予習、終わったら見せてくれないか?」
   二年になってから、フロア内での部屋移動があり、俺は二人部屋となった。ファルト・クルマンは同級生ではあるが、それほど親しくもない。しかし予習やテスト間近な頃だけ親しくしてくる少し面倒な男だった。
「終わったらな」
「まずいんだよ。ビザンツ語、この前のテストはあと三点で落第するところだった」
「見せるのは良いが、知らない単語ぐらいは辞書で引いておけよ」
「……真面目だよなあ、ヴァロワは」
   二人部屋となるとこれまで広々と使用していた勉強部屋も二人で使用することになり、本の多い俺は手狭になってくる。今はベッドの下にまで本を押し込む始末だった。
   おまけに此方が勉強部屋に居ると話しかけてくるものだから、集中出来ない。そのため寮の部屋のなかでは本を読む程度に留め、図書館で勉強するようになった。特に図書館の地下にある貴重書庫室は、利用者が殆ど居ないから落ち着いて勉強出来る。
「なあ、ヴァロワ。明日の……」
   クルマンが何か言い出しかけた時、部屋の電話が鳴った。電話に近いところに居た俺が受話器を取ると、寮長がジャン・ヴァロワ士官候補生か――と問い掛けた。
「はい。そうですが……」
「すぐに寮長室に来なさい。話がある」
   何か規則違反でもしでかしただろうか――記憶の糸を辿っても、何も思い当たる節は無い。
   とりあえずすぐに一階に下りて寮長室に向かった。入口で名を告げると、入りなさいと寮長の声が聞こえる。

   寮長は初老の教官で、規則に厳格な人だった。彼はすぐに俺を部屋に入れると、向かい側のソファに座らせた。テーブルの上には数枚の書類があった。
「落ち着いて聞きなさい。君のお父さんが倒れたと、連絡があった」
   父さんが、倒れた――?
   何故、父さんが……?
「第一親等の不測の事態に関しては特別休暇を申請することが出来る。この書類に学年と番号、名前を書きなさい。……君の家はリヨンだったな?」
「……はい」
   何事も無ければ良い。このところ忙しかったと言っていたから、過労で倒れたのかもしれない。深刻な状態でなければ良い。
   ……きっと大丈夫だ。身体は丈夫なのだから。これまで風邪で寝込んだことすら無いのだから。
「リヨン行きの最終電車がある。駅まで私が車で送っていこう」
「ありがとうございます……」
「とにかくすぐに出よう。五分で準備出来るか? 裏門の前に車を停めておくから、其処に来なさい。詳しい話は車のなかで」
   寮長は出立を焦っていた。そしてその口調や行動の素早さが、何か嫌な予感をかき立てた。

「ヴァロワ。何だった? 何か規則違反か?」
   部屋にすぐにもどると、クルマンが問い掛けてきた。頭の中が真っ白で、何も考えられない。
「……暫く家に帰る。父が倒れた」
   寝室にかけてある服に着替えて、部屋を後にする。階段を下り、裏門に出ると、一台の黒い車が見えた。
「乗りなさい。最終便が19時に発車する」
   車に乗り込むと、寮長は静かな口調で話し始めた。
「リヨンに到着するのが0時8分だ。駅の裏側にリヨン第三病院がある。場所は解るか?」
「はい。ですがその時間では……」
「救急患者用のゲートに行き、其処で名乗ったら病棟に案内してもらえる。お父さんは危篤だそうだ」
   危篤……?
   そんな――。
   病気どころか風邪さえも滅多にひかないのに。
   父さんが危篤……?
「身辺が落ち着いたら寮長室に連絡をいれなさい。それまでは特別休暇の扱いにしておく」

   どくんどくんと胸の鼓動が大きく鳴っていた。不安が犇めいていた。
   駅に到着し、寮長に礼を告げてから、すぐ切符を買ってホームに向かった。既に停まっていたリヨン行きの電車に乗り込み、空いている席に腰を下ろす。
   そういえば、何故母さんは携帯に連絡を呉れなかったのだろう――。
   そう思って、ポケットから携帯電話を取り出した。そしてこの時になって気付いた。携帯電話の電源が切れていることに。
「こんな時に……」
   自分の不注意だった。まさか、こんな時に限って――。


   リヨンに到着し、すぐに病院へと向かった。救急患者用のゲートに行き、名乗ると、看護師が病棟を教えてくれた。
   其処は集中治療室だった。ガラス張りの病室の前に、母とロロ小父さん、トム小父さんが居た。
「ジャン……!」
「ロロ小父さん……! 父さんは……!?」
   病室は見えるといっても、父の顔がよく見て取れない。ただベッドの周囲には無数の機械があった。
「作業中に突然倒れたんだ。すぐに病院に運んだんだが、心筋梗塞だと……」
「心筋梗塞……?」
「倒れてからずっと意識が無い。医者の話ではもって一晩だろうと……」
   俺は、悪夢を見ているのだろうか?
   父さんが心筋梗塞で倒れた? もう持たない?
   父さんはあれだけ元気だったのに――。

「ヴァロワさん」
   不意に側から呼び掛けられた。白衣を纏った医師が、父の側に行くように、母と俺を呼んだ。
   そしてこの日の午前二時、父は眼を覚まさぬまま、息を引き取った。




「……はい。申し訳ありません。はい。それでは再来週に復学しますので……」
   父が亡くなり、葬儀を執り行った翌日に寮長室に連絡をいれた。事情を話し、来週いっぱいはリヨンに留まることを伝え、それが受理された。
   父の死があまりに突然で、まだ実感が湧かなかった。母も茫と座り込むことが多く、一人で放っておけなかった。 


[2011.12.28]