スウェーデン王国まで列車で十六時間かかる。移動のためだけに初日を潰すことになったが、初めて国外に出る俺としてはそれほど苦痛にも感じなかった。
「やはり若いな、君は」
   窓の外を何となく見て居ると、アントン中将は肩が凝ったといって軽く息を吐いた。
「閣下もそんなお年でもないでしょうに」
「今年52歳になった。50歳を越えると、がっくりと体力が落ちてしまってな。十時間以上も乗物に乗っているのはきつい」
「……閣下は52歳ですか」
「君の年齢からして、御両親と同じぐらいではないか?」
「ええ。母と同い年です」
「君はリヨンの出身だったな? 御両親は今もリヨンに?」
「はい。父はもう亡くなったので母が一人で暮らしています」
「そうだったのか。それではお母さんも寂しかろう」
「休暇ごとにリヨンに帰っています」
「ハノーファーからだと遠いだろう。……私も妻はナポリに居てな。ハノーファー支部に転属が決まった時は散々愚痴を言われたものだ」
「閣下はハノーファーの前はナポリ支部だったのですか?」
「いや、本部に居た。それ以前はナポリ支部だったんだ。このまま暢気に支部で過ごそうと思い家を購入したが、その直後に本部転属となった。本部からナポリなら週末に帰ることの出来る距離だからな。まさかその次にハノーファーに行くことになるとは思わなかったが……」
   まあ、支部の方が気は楽だが――とアントン中将は笑った。先日昇級したザカ中佐も言っていたが、本部の雰囲気は異質らしい。軍全体がそうなのではないかと思ったが、ザカ中佐によると本部は特にそうだと肩を竦めていた。
『派閥の抗争が激しい。中立で居ようとするなら、相当な人間でないと駄目だぞ』
   それを聞いた時、フォン・シェリング中将のことを思い出した。彼も去年中将となり本部所属となっているが、彼と会った時のあの人を見下すような視線が強烈で、今でもって俺は苦手意識を抱いていた。ザカ中佐に何気なくそのことを伝えると、敵には回すなよ――と忠告してくれたものだった。しかしもう敵に回しているような気がするが。
「……実は本部の空席を探している。なかなか良い席が空かず、見計らっているところだが」
「転属願いを出されるのですか?」
「私ではない。君のだ。大佐となれば本部での仕事もある。今年は良い席が無かったが……。まあ、来年准将になれば良い席にも恵まれるだろう」

   本部に転属? 准将に昇級?
   俺が?
「……待って下さい、閣下。私はまだ当分ハノーファー支部で……」
「士官学校は認めんぞ。君のような能力の高い人材は本部に行くべきだと何度言っている。そもそも君は勘違いしているようだが、ハノーファーに新人を送り込むよう依頼したのは本部へ行く人材を養成するためだぞ」
「……え……!?」
   人材を養成――? どういうことだ。問い返そうとする前に、アントン中将は言った。
「本部に新人が配属されても満足に仕事を教えてもらえない。忙しいうえに、他人の足を引っ張るような連中が多いからな。優秀な人材を潰してしまうのは惜しいから、将官となるまでは支部に配属させ、その後、本部に異動させよう――そう考えて、新人を登用したんだ。私としては君を軍務局か参謀本部にと考えているが……」
   何がどうなっているのかよく解らなかった。ただ、俺の知らないところで話が進んでいるようで――。
   俺が唖然としていると、アントン中将は言った。
「そうでなければ新人に指揮官教育を施しはしない。勘の良い者なら気付くだろうに、君は肝心なところで鈍感だ」
   面と向かって鈍感と言われたことも初めてだった。だがこれで納得した。俺に直属の上官が居ない理由に。本来なら支部長であるアントン中将の間に、もう一人上官がいる筈だろうが、俺にはそうした上官が居なかった。はじめのひと月だけは、雑務を少将に習ったがそのぐらいで――。
   俺の直属の上官はアントン中将だったのだと、今知った。
「来年には准将の試験を受けてもらうぞ。少将となるまでは私が推薦することが出来るからな」
「評価していただけるのはありがたいことですが、私は閣下がお考えになるほど、優秀な人間ではありません。……定年まで無事に勤めあげれば良いとだけ考えているだけですから……」
「それはもう無理な話だな」
   アントン中将は俺の言葉を一蹴した。
「ひとつめは支部内では君の度重なる昇級を僻む人間が出て来ていることだ。いずれ君はこの支部に居づらくなる。ふたつめは君は既に旧領主家の人間を敵に回していることだ。……フォン・シェリング家は手強いぞ」
「親睦会に行かなかっただけのことでですか……?」
「一番の要因はそうだが、もう一つ理由がある。あちら側は君の情報を既に入手しているだろう。幼年コースを差し置いて、士官学校を首席で卒業したこともな。要注意人物と目されている筈だ。……そして今後君が、彼等に媚びへつらうこともないと私は見ているが?」
「それは……」
「そうなってくると君は軍で干されるか、それとも彼等と違う路線で上に上がっていくしか無くなってくる。私は君が後者で這い上がっていくだけの力を持っていると思っているが……」
   アントン中将の論で頭のなかがかき乱されそうになるが、ひとつひとつを順序立てて構成しなおしてみる。そうすると、確かに俺にも一端の原因があったといえるが、それに加速をつけるように物事を動かしているのはアントン中将ではないのか。少なくとも俺から昇級したいと言ったことは無い。
「……私は閣下の策に見事に嵌ったように思いますが……」
   そう告げるとアントン中将は面白そうに笑って頷いた。悪く思うなよ――とそう言って。それから真面目な顔になって言った。
「軍の体質は君が考えている以上に腐れ切っている。其処に君のような人材が増えれば、少しは組織を変えることも出来るだろう」

   スウェーデン王国に到着し、その日はホテルに直行した。翌日には軍の高官と会い、会談を行った。通訳と書記を勤め、一連の仕事を恙無く終えると自由時間もあった。ホテルから少し歩くと古い書店がある。其処で気に入った本を買った。このところ、仕事が忙しく本を買いに行く時間も無かったから、はからずしてそれは相当な冊数になってしまって――。
「ヴァロワ大佐。その巨大な荷物は何だ?」
   アントン中将に呆れられてしまった。



   このスウェーデン王国への出張を皮切りに、出張が増えた。大抵はアントン中将の補佐として随行する。時には本部に行くこともあった。ザカ中佐は特務派の事務局に居ると言っていた通り、軍務局本部に行っても見かけることはない。だが二度目に訪れることになったこの日は、帝都に一泊することになり、ザカ中佐と会う約束を交わした。
「ヴァロワ大佐。今日はこれで終了だ。私は少し用があるからまだ宿舎には戻らんが、君は自由に過ごしてくれ」
「はい。それではお先に失礼します」
   五時半を過ぎてアントン中将と分かれた。ザカ中佐とは八時に宿舎のロビーで待ち合わせている。俺が泊まる宿舎の一階は出張者のための部屋に開放されており、ザカ中佐はここの三階に住んでいるらしい。一旦、宿舎に行って着替えを済まし、八時となるのを待った。十分前になってからロビーに行ってザカ中佐を待った。
「ジャン」
   暫くすると俺を呼ぶ声が聞こえた。振り返るとザカ中佐が歩み寄って来るのが見えた。
「お久しぶりです。ザカ中佐」
「本当に久しぶりだ。変わり無さそうだな、ジャン。……と、お前にはもう敬語を使わなければならないか」
「止めて下さいよ。昇級はただ単に運が良かっただけのことなのですから」
   肩を竦めて告げると、ザカ中佐は冗談だと言って笑った。
「部屋に行こう」
   ザカ中佐に促されて、階段を上がっていく。三階の端から二番目の部屋までやって来た時、ザカ中佐はカードを挿し込んで扉を開いた。
「今日は早く帰宅出来たから掃除は済ませておいたんだ。大したものはないが、宿舎のほうがゆっくり話が出来ると思ってな」
「俺も今日は五時半には本部を出たのですよ。いつも九時十時ですが」
「奇遇だな。私も上官に来客があるとのことで今日は早々と帰ったんだ」
   ザカ中佐とは一年ぶりに顔を合わせることになるが、変わっていなかった。そして俺よりもまめで気が利くから、部屋は掃除が行き届いていてとても綺麗だった。
「仕事はどうだ? 大佐となって何か変わったか?」
「出張が増えました。月末も国外出張です」
「ジャンは語学が堪能だからな。今度は何処に?」
「新ロシアに。ザカ中佐の方は今も忙しいのですか?」
「相変わらずだ。こんな時間に帰宅出来たのは本当に珍しいぐらいに」
   ザカ中佐と語り合う時間はあっという間に過ぎていく。気のおけない友人であり、やはりいつでも変わりないザカ中佐に安堵した。
   どうしても軍に居ると、自分だけが特殊なのかと考えてしまう。軍は昇級と足の引っ張り合いの連続――僻みや妬みが多い。誰もがそうなのだろうか、俺が鈍いのだろうか――そう思うこともあったが、ザカ中佐と話していると、軍の環境が異常なのだということがはっきり解る。


[2012.4.28]