昇級試験を再来月に控えたある日、フィレンツェ支部の支部員達と合同訓練を行うことになった。アントン中将は勿論、支部の高官の殆どがフィレンツェへと赴くことになっていた。其処に俺も同行することを命じられた。
「今回の指揮は私が執る。ベレ少将、ラウル准将、君達は私の補佐を。シャフト大佐、ハイド中佐、ヴァロワ少佐は各部隊を統率」
   いつもなら指揮官補佐を求められるのに、今回は違った。支部同士での合同訓練だからだろうか。
   おまけにアントン中将の指揮もいつもと違っていた。相手側の支部指揮官に迎合するように動いているようだった。しかし最後の一撃はアントン中将らしい作戦が遂行された。一個部隊を指揮しつつも殆ど傍から見ているだけだったが、何とも奇妙な動きとしか思えなかった。
「いや、流石はアントン中将ですな。容易には勝てない」
   演習を終えると、相手側のグランツ中将がアントン中将の許にやって来てそう言った。良い訓練を積ませていただいた――とアントン中将は応える。程なくして演習は終わり、解散が告げられた。今日はフィレンツェの宿舎に泊まることになっていた。その部屋に向かおうとすると、シャフト大佐が呼び止めた。
「ヴァロワ少佐。これからが本番だぞ」
「……演習は終了ではないのですか……?」
「演習は終わったが、親睦会がある。聞いていないか?」
「親睦会……? いいえ、何も」
   支部同士が顔を合わせたからだろうか――そう思っていると、シャフト大佐は言った。
「フィレンツェ支部にフォン・シェリング少将がいらっしゃる。彼の主催の親睦会だ。顔を出しておいたほうが良い」
   フォン・シェリング少将――その名を一度は聞いたことがある。旧領主層の一人で、軍ではかなり強い勢力を持っていると聞いている。軍にはいくつか派閥があって、彼はその一大勢力といったところだった。
   だが俺としては、なるべくどの派閥とも関わり合いたくない。派閥の抗争に巻き込まれた時、厄介だ。
「……強制参加ですか?」
「そうではないが……。参加して顔を覚えてもらったほうが良いぞ? 今後の昇級のことも考えるとな」
   どうやらとても面倒な親睦会となりそうだった。遠慮しておきます――とシャフト大佐に告げると、皆が酷く驚いた顔で此方を見ていた。何処か別の派閥に所属しているのか、とハイド中佐も尋ねてくる。
「そうではありませんが……。派閥云々にはどうも疎いだけです」
   彼等は呆れた顔をする。俺のような人間は軍にとっては異端分子なのかもしれない。しかし昇級のために殊更、旧領主層のご機嫌を伺う気にはなれない。
   そう思う俺は相当な変わり者なのかもしれないが――。
   皆が親睦会に行くなか、俺はただ一人宿舎へと帰った。





「すぐに私の部屋に来なさい」
   フィレンツェでの演習を終えてハノーファーに戻った翌日、アントン中将に呼び出された。何か仕事を命じられるのかと思っていたら、執務室に入るなり、アントン中将は渋面で言った。
「フォン・シェリング少将の親睦会に行かなかったと聞いた。何故だ?」
   まさかこんなことを問われるとは思わなかったから、適当な理由も用意していなかった。
「……出来るだけ派閥とは関わり合いを持ちたくないだけです」
   そう応えると、アントン中将は眼を見開いた。それを取り直すかのように一度咳払いして厳しい表情を作る。
「派閥に与しなければ出世は望めんぞ」
「殊更に旧領主層に諂ってまで、出世したいと思っていません」
   言ったあとでしまったと思った。これは上官に言うべき言葉ではなかった。
   叱られるな――そう覚悟してアントン中将を見遣ると、虚を突かれた様子で俺を見つめていた。そして意外なことに、くくっと笑い出した。
「やれやれ……。君は賢い男かと思ったが、頑固者だったか。まったく出世してほしい人材に限ってな」
   アントン中将は困ったような顔をしながらも、笑みを零す。意外な反応に俺のほうが驚いた。
「フォン・シェリング家は陸軍の一勢力だ。それに対するのがロートリンゲン家、現在、軍務局司令官を務めているが、勢力としてはフォン・シェリング家に押され気味だ。フォン・シェリング少将というより、退官した元帥の力が強くてな」
   フォン・シェリング家とロートリンゲン家――。この名は軍人であれば誰もが知っている名前だった。二大勢力と言われている。
「大きく分けると軍では今の二つの家が力を誇っている。このことは知っていたか?」
「あ……、はい」
「知ったうえで、派閥には属したくない、か。……まあそれならそれで良かろう」
   アントン中将は意外にもあっさりとそう言ってくれた。それもいつになく楽しそうな様子で。
「私も派閥は嫌いでな。君の意志もよく解る。……しかし、派閥に属さずとも彼等と上手く付き合わなくては駄目だ。君が正しくとも、軍のなかでは認められないこともある。……要領良く世を渡らねばな」
   初日に叱られて、書類の不備があるたび怒鳴られて――。
   気難しく、近寄りがたい人物だと思っていたが――。
   アントン中将は俺が考えていたような人間とは違う。利己的な方ではない。
   ああ――。
   今、解った。フィレンツェでの演習でアントン中将自身が指揮を執ったのは、指揮官を担当した将官達との摩擦を避けるためだ。
   この方は常に部下のことを考えて動いていたんだ――。
「……お気遣いをありがとうございます。閣下」
   素直に発せられたその言葉に、アントン中将は軽く眼を見張った。
「君は我が強そうだと思ったが、意外に素直なところがあるな。……それにしても、昨今では珍しい若者だ。いや、軍ではというべきか」
   アントン中将の別の一面を見たようだった。気難しい方だと思っていたが、そんなことはない。むしろ俺はこういう人の方が付き合いやすい。
   上官がアントン中将で良かった――初めてそう思えた。
「さて、質問は終わったから下がって良いぞ」
「はい。失礼します」

   この一件から二ヶ月後、またフォン・シェリング少将と会う機会があった。名乗って挨拶をしたところ、彼は鋭い眼で一瞥し、何も言わずに通り過ぎた。側に居た取り巻きが、彼に何かを囁き、彼はまた一度此方を見遣って、あの男か、と言った。
   もしかしたら親睦会に参加しなかったことを根に持っているのかもしれない。どちらにせよ、俺には遠い存在だからどうでも良かった。


   そして年末に昇級試験を受けた俺は、無事、中佐に昇級した。仕事内容はそれほど変わらず、またその翌年に昇級試験を受けて大佐となった。最短での昇級を羨む声もあり、別の仕事を押しつけられることもあったが――。
「ヴァロワ大佐。部屋に来てくれ」
   アントン中将だけは俺を信頼してくれた。相変わらず仕事には厳しいが、執務室では用兵について様々なことを教えてくれる。俺はアントン中将とのそうした会話を楽しんだ。
「来週、スウェーデン王国で会議が開かれるのだが、其処に出席することになった。君は書記としてついてきてほしい」
   初めて国外への出張を命じられた。支部に届く国外の案件は殆ど俺が担当していたから、語学力を買われたのかもしれない。


[2012.4.3]