「誰か、連邦語を訳せる奴は居ないか?」
   ハノーファー支部に配属となって半年が過ぎた。将官達の書類整理や偶にアントン中将から提示される課題に取り組んで毎日が過ぎていく。このところは書類の処理そのものも任されるようになっていた。
   そんな時、同じ部屋に居たラウル准将が部屋を見渡しながら言った。連邦からの書簡が届いたらしいが、本部を通さず、此方にそのまま送られてきたようだった。
「参ったな。今年三度目だぞ、ラウル」
   ベレ少将までも困った様子でそう言った。
「将官たるもの連邦語ぐらい……とまた説教が始まるぞ。仕事の傍ら、語学の勉強など出来ないのに……」
「あの、私で良ければ訳しますが……?」
   訳を申し出るとベレ少将とラウル准将は俺を見遣った。訳せるのか――とベレ少将が問う。
「書面を拝見してみないと解りませんが、おそらく訳せるかと……」
   ラウル准将から手渡された紙には連邦語特有の語が並んでいた。だが、そう難解なものでもなく、これなら10分ほどで解読出来そうだった。
「大丈夫です。訳せます」
「良かった! ならば今後、連邦からの書類はヴァロワ少佐の担当とするぞ。これは大助かりだ」
   翻訳し終えてからラウル准将にそれを渡すと、彼は喜んで、その後の処理を始める。どうやら急ぎの書類だったようで、処理を済ませると支部長室へと向かった。
   今回の翻訳のような仕事は俺も面白かった。此処にはどうやら連邦語を訳せる人間はいないようだから、またこうした仕事があったら回してもらえるだろう。


   その翌日のことだった。
   アントン中将が部屋にやって来て言った。
「ラウル准将、この連邦の書類を訳したのは誰だ?」
   ちょうど部屋に居たラウル准将は立ち上がり、ちらと俺を見てから言った。
「……ヴァロワ少佐です」
「ヴァロワ少佐?」
   アントン中将が今度は此方を見遣る。何か間違いでもあったのだろうか――。
「私です。申し訳ありません。誤訳がありましたか……?」
「君は連邦語が訳せるのだな? 他にどの言語を扱える?」
「え? あ……、ビザンツ語、新トルコ語、ブリテン語、新ロシア語……」
   率直に言えば、俺は殆どの言語を訳すことが出来る。士官学校のバルトリ教官が、語学だけは無駄にならないから身につけておくようにと様々な本を貸してくれた。語学の講座を設けてくれたこともあった。
「つまり君はどの言語もまず不自由しないのか」
   アントン中将の言葉に、辞書さえあればとひとつ仮定を付け加えた。すると、アントン中将は支部長室に来るよう告げる。もしかして俺はとんでもない誤訳をしていたのではないだろうか――。

   アントン中将に一歩遅れて支部長室に入室する。アントン中将は机の中から書類を取り出した。
「ムガル語も訳せると言ったな?」
「はい。あの、閣下。昨日の書類は……」
「完璧な訳文だった。これまで私以外に連邦語を操れる人間が居なかったから、今後も君が担当してくれると助かる。……ところで君はいつ語学を学んだ?」
「士官学校の在学時です」
「課外講座……ということか?」
「はい」
   どちらかというと、文学や語学といった課外講座のほうが俺は熱心に受講していた。沢山の本を読みたかったから――。
「それはまた熱心な学生だったのだな」
「いえ、その……。私は元々、文学に興味がありまして、語学も趣味のようなものです」
   そう応えると、アントン中将は面白そうに笑んだ。この方のこんな表情を初めて見た――。
「良い趣味だ。しかしでは何故、大学に進学しなかった? 人文系では就職に不利だからか?」
「……帝国大学の文学部に合格していましたが、その年に廃止されることが決まりまして、残された選択肢が士官学校入学しかなかったのです」
「……ああ、四年前の……。成程、君か。上位合格者で士官学校に入学したというのは……」
「士官学校でも文学や語学を学べると知って、喜んで受講しました。このような形で役に立つとは思いませんでしたが」
「語学は身につけておくべきものだ。士官学校でもせめて必修をビザンツ語だけでなく連邦語と連合国語も含めろと提言しているのだが……。どうも意識が低い。しかし……、そうか、文学部志望だったのか……。道理で……」
   アントン中将は呟くようにそう言ってから、俺を見上げた。
「君の能力は支部員としてよりも、本部で活かされそうだ」
   何か考えるようにアントン中将は手を机の上で組む。どう反応して良いのか解らず黙って聞いていた。
「尤も本部行きは准将となってからでも遅くはない。君も本部所属を希望しているのだろう?」
「あ……いえ、その……」
「何だ? 上級士官コースに進学したからには本部に所属することが第一希望ではないのか?」
「実は……その、私は士官学校への配属を希望しています」
   アントン中将は無言のまま俺を暫し見つめた。眼を少し見開いたような様子からも、驚いているようだった。
「士官学校……? 教官となりたいのか?」
「はい。准将に昇級出来たら希望を出そうと……」
「莫迦を言うな。若手の優秀な人材は本部に所属するものだ」
   アントン中将に即座に返された。上官に反対されたということは、上官から支部異動の推薦を貰うことは難しいということになる。士官学校を第一に志望しているのに――。
「……此処に配属されてまだ半年とはいえ、君は書類の作成にも長け、隊を指揮する能力も優れている。私は君のことを高く評価しているのだぞ」
   これには驚いた。アントン中将からは叱られたことしかなかったのだが――。
「もう少し後になってから伝えようかと思ったが良い機会だ。ヴァロワ少佐、君には年末に昇級試験を受けて貰う用意がある」
「……昇級試験ですか……!? しかし私はまだ所属したばかりで……」
「隊の指揮を任せるうえでは少佐以上の階級が必要な時がある。……まったく、これだけ有望な人材でありながら、出世欲が無いとは何事だ」
   そう言われても――。
   はじめから軍人を志望していた訳ではないのだから仕方が無い。
「おかげで肝心なことを話し忘れるところだった。ヴァロワ少佐、ムガル語を訳せると言っていたな?」
「はい。可能です」
「ではこの書類の案件に眼を通して、私に報告してくれ。本部に依頼しようかと思っていたが、君が翻訳できるなら都合が良い」
   アントン中将から三枚にわたって綴られた書類を受け取る。ざっと眼を通したところ、国境での些細な諍いについて書かれたものだった。ムガル王国といえば帝国の南部と国境を接する国だが、何故そのような国の案件がアントン中将の許にあるのだろう。
「国境を侵害したのは帝国陸軍だということを主張していますね」
「……もう読み終えたのか?」
「ムガル王国には多数の古典が残されていて、それを読むために必死に修得したので……」
「では口頭で構わないから、一文一文訳して聞かせてくれるか?」
   請われた通り、訳していく。アントン中将はメモを取りながらそれを聞いていた。訳し終えると、アントン中将は暫くメモを見、別の紙にさらりと文を書き付けていく。
「今度はこの文をムガル語に訳して持って来てくれ」
「解りました」
   アントン中将の執務室を去り、自分の机に戻って来た時にはもう一時間が経過していた。他の佐官や将官達が叱られたのか――と興味津々に尋ねてくる。いいえ、と返すとラウル准将が言った。
「あれだけの語学を修得しているのはヴァロワ少佐ぐらいだな。驚いたぞ」
   これ以後、外国案件は全て俺の許に回されるようになった。翻訳の作業は俺にとっては面白いものではあったが、それ以外の仕事も何故か急激に増えてきて、残業となる日も多くなってしまった。


[2012.3.3]