第2章 上官



   初めてハノーファー支部の前に立った時、驚きを隠せなかった。俺はこの支部のことを小さな支部だと思っていた。取り立てて主要支部ということもない。だが予想に反して、此処は大きな支部だった。三階建ての建物は外観が古いが、内装は綺麗に整えられている。部屋数も多く、事務官に案内された部屋は二階の真ん中の部屋だった。
   扉を叩き、返事を聞いてから開ける。中には机が並んでいて、十人程の軍人達が各々の仕事に取り組んでいた。その手を休め、此方を見遣る。
「本日よりハノーファー支部に配属となりました、ジャン・ヴァロワ少佐です。よろしくお願いします」
   敬礼をしてから挨拶をすると、彼等は立ち上がって出迎えてくれた。一人の少将が歩み寄って、敬礼を返す。
「経理担当、アドリアン・ベレ少将だ。よろしく。……一応、君の教育係を担当することになるのだが、君の立場が少し複雑でな。これから支部長室に挨拶に行くから、詳細はアトン中将閣下から聞いてくれ」
   立場が複雑とはどういうことだろう。
   はい、と応えたもののいきなり訳の解らない状況に立たされたようだった。ベレ少将は俺を促して部屋を出て、フロアの一番奥へと進む。其処にある部屋は支部長室と書かれてあった。
「失礼致します、閣下」
   ベレ少将はノックをして声をかける。入りなさい、と厳めしい言葉が返ってくる。
「新人のジャン・ヴァロワ少佐が参りました」
   ベレ少将の後について入った部屋は、殊更豪華な部屋ではなかったが、きちんと整理整頓の行き届いた部屋だった。中年の男性が奥の机に座っており、その机の上や壁際には分厚い本が並んでいた。如何にも執務室と呼ぶに相応しい部屋だった。
「本日よりハノーファー支部に配属となりました、ジャン・ヴァロワ少佐です。宜しくお願いします」
   先程と同じ言葉を繰り返すと、中年の男性――アントン中将は俺を凝と見つめ、それから言った。
「ハノーファー支部長、ヴィクトル・アントン中将だ」
   威厳とでもいうのだろうか、言葉のひとつひとつがとても重い。そのためか、緊張感が部屋全体に張り詰めているようにも感じる。
「支部内で解らないことがあれば、ベレ少将に聞きなさい。君の教育係を命じてある」
「はい」
「そして君の担当だが、ベレ少将や他の将官を補佐しながら、対テロ組織の担当となってもらう。具体的には作戦の立案や実行――、つまり部隊の指揮だ」
   対テロ組織の担当……?
   新人の俺がいきなり部隊の指揮?
「返事は」
   黙り込んだ俺にアントン中将が厳しい視線と声を向ける。はい、と応えると、アントン中将は渋面をして言った。
「声が小さい。そんな声で隊を指揮できるか!」
「はいっ」
   これは――。
   俺はかなり気難しい支部長の許に配属されたのではないか――そう思わずにいられなかった。
「即戦力となれる新人が欲しいと本部に願い出て、士官学校で特に優秀な人材を此方に回してもらったのだが……」
   アントン中将は俺をまた凝と見、それからベレ少将のほうに視線を移して言った。
「ベレ少将。これからひと月の研修期間、彼に書類の整理を教えてやってくれ」
「はい。閣下」
「ヴァロワ少佐。君は明日までにこの案件について、君ならばどう部隊を配置するか考えて、作戦案を聞かせてくれ」
   アントン中将は一枚の紙を手渡す。それを受け取ると、退室して良いぞ――と彼は言った。その言葉に少し安堵した。
「新人で指揮官に抜擢とは異例のことだぞ」
   部屋に戻る途中、ベレ少将は俺を見てそう言った。
「おそらくこれから閣下の部屋を往復することになるだろうが……。兎に角、閣下を怒らせないようにすることだ。厳しい方だからな」
   部屋に戻り、専用の机とパソコンを貰い受ける。ベレ少佐が記録メディアを此方に差し出して言った。
「まず、君にやってもらいたい事務整理の仕事がある。此処に入っているデータに眼を通してくれ。そしてミスが無ければ印刷を」
   記録メディアには10個のファイルが入っていた。早速それに取りかかった。どのファイルにもミスが無かったので印刷をしようとすると、もう読み終えたのか、とベレ少将は驚いた様子で言った。
「あ、はい」
「きちんと隅々まで眼を通したのか?」
「はい。読みましたが……?」
   その後、他の書類も同様のことを求められ、それらを終えてから、アントン中将に命じられた作戦立案を考えてみた。資料を見ながら、思いつく案をいくつか書き出してみる。だが、それらの案を絞り込むための判断材料がこれだけでは少なすぎた。
「閣下。過去の事例を見ることは出来ますか……?」
   ベレ少将に尋ねてみると、彼はああと応え、資料の置いてある部屋のことを教えてくれた。其処に案内してもらい、暫くその部屋に篭もって、資料を探してみることにした。これは俺にとって面白い作業だった。この部屋には資料だけでなく、書籍も豊富に置いてあった。用兵学から戦術論まで、見たことのない書籍も沢山ある。


「ヴァロワ少佐。居るか?」
   いつのまにか大分時間が過ぎていたらしい。扉の方から呼びかける声が聞こえて、傍と顔を上げた。ベレ少将だった。
「閣下がお呼びだ。すぐに執務室へ」
「はい」
   読みかけの資料を元に戻して、そのまま執務室へと向かう。アントン中将の執務室に行くと、先程の課題はどれだけ進んでいるか問われた。
「考えつく作戦案を掲げましたが、過去の事例も見てみたく、資料室で探していました」
   そう応えると、アントン中将は少し眉を上げた。
「それでどうだ? 君の意見は?」
「まだ途中ですが……、この書類の件については、組織の概要が未だ判明していませんので、まずは構成員全員を表に出す必要があると思います。その方法は……」
   思いつく策を、書類を見返しながらいくつか伝えると、アントン中将は静かにそれを聞いていた。報告を終えてもまだ暫く黙り込んでいたが――。
「その紙を見せてくれるか?」
   アントン中将に求められ、走り書いたメモを手渡す。きちんと纏まっていないと叱られるかと思ったが、アントン中将はそれをひとつひとつ眼を通すかのように読んでいた。
「成程……。成績優秀というのは確かだな。基礎知識はあるし、追求心もある」
呟くようにそう言って、俺にメモを返す。ヴァロワ少佐――とアントン中将は呼びかけた。
「机上の理論と実戦は違うことだけは常に頭に入れておけ。今回の君の立案は、作戦会議でも遜色のないものだった。だが、現場では様々な条件が絡み合う」
「はい。閣下」
「仕事の話はこれまでだ。もう終業時間も過ぎたことだし、君も初めての仕事で疲れただろう」
   アントン中将は穏やかな表情を浮かべて言った。先程までの厳しさとは一転していて驚いた。
「今日はゆっくり休みなさい。それから明日もまた私の執務室に来るように」
「はい」
   敬礼して、失礼しますと告げてから退室する。
   軍人としての初日はこうして過ぎていった。


[2012.2.25]