「ビザンツ王国は帝国と似ているな。だが、あちらの方が自由な気風だ」
   演習が一段落した頃、俺は居心地の良い酒場を見つけた。士官学校から近いところにあるが、学生達があまり足を踏み入れない地域にある下町の酒場だった。この店の初老のマスターは若い頃に各国を旅した自由人で、また非常に知識の広い人であり、彼の話は飽きることがなかった。
「ジャン。若い内に色々な経験をしておいた方が良いぞ」
   それに、彼と話していると、ロロ小父さんやトム小父さんと話しているようにも感じる。居心地が良いと思うのはそのせいかもしれない。
「時間に余裕が出来たら外国に行ってみたいな。アジア連邦や新トルコ王国も面白い文化があるから……」
「そうそう。体力のあるうちにな。年を取るとそうもいかなくなる」
   側に居たマスターと同じぐらいの年の男がマスターに賛同する。俺を見て、若いなと言った。
「きちんと仕事をしているのか? まさか荒くれ者の一味じゃないだろうな」
   客の男は俺を上から下まで見ながら言う。違いますよ――と言っても、俄には信じて貰えそうになかった。此処には俺のような若者は来ないから――。
「ハリー。彼のことなら信用して構わんよ。荒くれ者と判断するには、性格が穏やかすぎる」
「素性が解らんと昨今では何があるか解らんからなあ。どうしても用心深くなってしまう。……まあ、マスターが言うなら間違いはないだろうが」
「私が予想するに、ジャンはお堅い仕事に携わる人間だな」
   どうも――。
   マスターには全てを見透かされてる気がする。俺が士官学校の学生だということも一言も漏らしたことは無いが、気付かれているような――。
「あ、そろそろ帰るよ」
   時計を見ると、門限が迫っていた。席を立つと、マスターは微笑んで、ほら真面目な青年だろう――とハリーという名の男に告げる。ドライ・ジン三杯の料金を支払って、店を後にした。

   夜風に当たりながら、寮への帰路を歩いて行く。
   このところ、同級生達は人脈作りに奔走している。こんな休日には、軍人達の多く通うパブに入り浸っているようだった。誘われたことがあり、一度だけ足を運んだが、同級生達の軍人達へのわざとらしい態度に辟易して、途中で抜け出してきた。軍の内部があのような雰囲気なのかと思うと、既に今から気が重くなってしまう。
   四年生となって、運良くまた一人部屋となった。その部屋に戻り、ソファに腰掛ける。テーブルの上に置いたままの本を取り、栞を挟んだページを開いて、読み始める。そうしていつしかうとうとするのが、今現在何よりも心地良いことだった。
明日まで休暇で、明後日から週末までは講義が連続する。そして来週からはまた演習に出ることになる。今度は海上演習だった。

   うとうととソファで横になっていたところへ、携帯電話が鳴った。閉じそうな瞼を引き上げて、画面の表示を見るとザカ少佐からだった。一気に眠気が覚めていった。
「もしもし」
   電話に応答すると、ザカ少佐の声が聞こえて来た。
「久しぶりだ、ジャン。元気か?」
   そう告げるザカ少佐の声は少し元気が無いようだった。
「ええ。ザカ少佐は? 本部は如何ですか?」
「上官に叱られてばかりの毎日だ。今日は珍しくこの時間に帰宅出来たよ」
「この時間って……、もうすぐ日付が変わってしまいますよ……。かなり忙しそうですね」
「まあな。……ジャン、少し話したいことがあるんだ。どうも私自身の気持ちの整理がつかなくて……」
   何かあったのだろう。ザカ少佐の声が憔悴しきっているように聞こえた。これだけ元気が無いということは、もしかしたら叔父夫婦のことで何かあったのかもしれない。
「でしたら、俺が其方に行きますよ。ちょうど明日は休みですし……」
   ザカ少佐も明日は休日のようだった。帝都の駅の近くにあるフレアという名のカフェで落ち合うことになった。
   眠気が覚めると、ザカ少佐の様子が気にかかった。酷く憔悴していて、あんな声は聞いたことが無かった。



「ジャン。変わり無さそうだ」
   待ち合わせのフレアというカフェの前にやって来ると、ザカ少佐は既に其処で待っていた。
   ザカ少佐はいつも通り笑んでいたが、酷く疲れ切った顔をしていた。眼の下に隈を作り、ともすれば溜息を零しそうで――。
「どうしたのですか? 本部が忙しいのですか?」
「いや……。確かに仕事は忙しいが……。実は叔父夫婦が軍務局にやって来たんだ」
   それを聞いて流石に返事が出来なかった。中に入って話をしよう――ザカ少佐に促されて、カフェの中に入る。二階席の一番角の席に腰掛けると、ザカ少佐は話し出した。
「……先週末、叔父夫婦が軍務局にやって来たんだ。私に会いたいと理由づけてな。私は軍務局所属といっても、本部近くの特務派専用の事務所に待機している。叔父夫婦は宮殿事務局で親族であると告げて、軍務局にやって来たんだ。私から一度も連絡が無い、話がしたいから取り次いでくれ――とな」
「それで……、会ったのですか?」
「軍務局から私が側の事務所に居ることを教えられて、其処にやって来た。何も聞いていなかったから、突然やって来て驚いたよ……。心の準備も無かったから動揺した。彼等は私を見つけるなり、腕を掴んで言ったんだ。一度も連絡を寄越さず、どれだけ心配したと思っている――とな。ちょうどその場には特務派の隊員全員と上官……ロートリンゲン大将も居た」
   ザカ少佐は俯いて、拳を握り締めた。
「私はその時、手を振り解いたんだ。……そうしたら、ロートリンゲン大将が少し話をするようにと一室を貸してくれた。叔父夫婦と私だけになって、彼等が何と言ったと思う? ……恩知らずと罵られたんだ。子供の頃に引き取ってやって、自分で稼ぐようになったら連絡のひとつも寄越さない。恩を仇で返す気か――とな」
「……本気でそんなことを……?」
「毎月、20ターラーを仕送りしろと言われたよ。……もう縁を切ったと言い放って拒んだんだが、軍の上官に言いつけると言って来て……」
   20ターラーといえば、給与の半額に相当するのではないだろうか。まさか送金したのですか――と問い掛けると、ザカ少佐は首を横に振った。
「彼等とは縁を切りたいから、一切連絡もいれていないし、送金もしていない。……だが、私にも落ち度があって、身元引受人を叔父夫婦にしていたんだ」
「身元引受人……?」
   意味が解らず尋ね返すと、ザカ少佐は入省後に必要となるんだ――と言って教えてくれた。
「軍人だから有事の際、命を落とすことがある。その時の身元引受人を書いて提出しておかなければならないんだ。本当は叔父の署名が必要なんだが、自分で書いて上官に提出した」
   言われてみれば――。
   軍人という職業は危険と隣り合わせだ。死んだ時のことも考えておかなければならない。俺の場合、身元引受人は当然、母となるのだろうが――。
「……叔父の名前を書いていたから、彼等は軍務省に入ることが出来たんだ」
「ザカ少佐……。でもそれは……」
「私は一切の縁を切りたい。仕送りしなければ、また彼等は軍務省にやって来るだろう。だがそのためには身元引受人を変えなくてはならない。あの二人が二度と軍務省にやって来られないように」
「……俺の母で良ければ頼んでみましょう」
「いや、駄目なんだ、ジャン。私も当初はそうすることを考えた。だが、身元引受となる人が二人以上の身元を引き受けることは出来ない規定となっているんだ。兄弟を除いてはな」
「え……? 何故ですか?」
「身元を引き受けると同時に手当も貰うことになる。その手当に絡んで、不正受給を防ぐための策のようだ」
   では――。
   それではザカ少佐のように家族が居ない場合はどうなるのだろう。叔父夫婦に頼む以外、選択肢が無くなってしまうではないか。
「では……」
「他の方法が無い訳じゃない。ひとつだけ方法があるんだ。所属部局の上官ならば、了承を得たうえで、身元引受人となることが出来る。……だが……」
「ザカ少佐の上官というと……、ロートリンゲン大将ですか?」
「ああ。ロートリンゲン大将に全てを打ち明けなければならなくなる。それは果たして良いことなのか……と思ってな。あの方は厳しい方だし、道義を重んじる方だから、叔父夫婦に頼るよう告げるのではないかと……」
   ザカ少佐の危惧は解る。だがどちらにせよ、そのロートリンゲン大将に打ち明けてみるだけの価値はあるのではないかと思った。このままでも叔父夫婦が身元引受人となっているだけだが、もしロートリンゲン大将が承諾してくれれば叔父夫婦の呪縛から解かれることになる。ロートリンゲン大将がどのような人物なのか解らないが――。
   ザカ少佐に思った通りのことを告げると、ザカ少佐も納得した様子で頷いた。話して気が楽になった――と言って、ザカ少佐は帰っていった。


[2012.1.29]