休暇が近付いて来たある日、借りていた本を図書館に返しに行った。休暇期間中は長期貸出が可能だから、何冊か借りて帰ろう――そう思って、本を探していたところ、ザカ先輩と出くわした。
「その様子だと貸出上限の十五冊を借りて帰るのか?」
   俺の手許を見て、ザカ先輩は苦笑混じりに言った。
「今日借りて、家に送ってしまおうと思って」
「休暇は実家に帰るのか?」
「ええ。ザカ先輩は?」
「俺は学校に残るんだ」
   三週間もある春期休暇を学校で過ごすのだろうか――ふとそう思ってザカ先輩を見返すと、ザカ先輩は笑みを浮かべて言った。
「俺は両親を子供の頃に亡くしているんだ。遠縁の親戚夫婦に育てられたのだが、何と言うか……、あまり良い環境でなくてね。だから休暇はいつも寮で過ごしてるんだ」
「そうだったのですか……」
「自宅は帝都にあるんだが、その親戚夫婦が暮らしている。士官学校に入ってからは一度も戻ってないな。あちらも帰って来いとは言わない。ところでジャンは? 自宅は帝都なのか?」
「いいえ。リヨンです」
「それはまた遠いな」
   ザカ先輩は何も気にしていない風で、いつもの様子で話しかけてくる。
   ザカ先輩の気性から察しても、人に嫌われる性質ではない。そして誰とでも仲良く接する。傍目からも人間関係を繋ぐのが巧いと思う。そんなザカ先輩が、長期休暇でも帰宅しないということに驚いた。遠縁の親戚夫婦と余程仲が悪いのだろう。
   意外だった。これだけ温厚な人がそれほど人を嫌うことが。何か理由があるのかもしれない。尤もそれは俺が尋ねて良いことではない。
   それにしても、長い休暇を学校で過ごすのは退屈ではないだろうか。
   そうだ――。
「ザカ先輩。それでは時間はたっぷりありますね? 誘っても良いですか?」
   そう問い掛けると、ザカ先輩はああと応えて、何だ、と問い返した。
「俺の家に遊びに来ませんか?」
   ザカ先輩は驚いた様子で俺を見つめた。
「校内よりも色々な話が出来ますし、偶には外に出るのも良いですよ」
「しかし、突然押しかけてはお前の家族にも迷惑がかかるだろう」
「いいえ。母も喜びます。昨年、父を亡くしてから、母は一人で暮らしているので、人数が増えると喜びますよ」
「……では迷惑にならなければ」
   この晩、母に友人を連れて帰宅する旨を伝えると、案の定、母は喜んだ。士官学校で出来た初めての友達ね――そう言っていた。



「……帝都から出るのは初めてだ」
   リヨン行きの電車に乗り込んだ時、ザカ先輩は窓の外を見ながらそう言った。
「帝都には何でも揃ってますからね」
「そうではなくて……。俺は一度も旅行に行ったことが無いんだ。叔父夫婦は出掛ける時はいつも二人で出掛けていて、俺は留守番だった」
   ぽつりぽつりとザカ先輩は話してくれた。
   ザカ先輩が三歳の時、両親が相次いで病死した。ザカ先輩の母親が自らの死を悟って、遠縁の叔父に頼ったらしい。ケルンの街に住んでいた叔父夫婦には子供が居なかった。遠縁で会ったこともなかったらしいが、施設よりは良いと考えたのではないかとザカ先輩は言った。
「だが、施設の方が良かったのではないかと何度も思ったよ」
   母親の死後、叔父夫婦は帝都のザカ先輩の家に引っ越してきた。
「叔父も叔母も子供の世話には興味が無かったんだ。彼等が興味を持ったのは父が祖父から譲り受けた僅かな預貯金だ。俺が生まれる前年に祖父が亡くなっていて、その時、父が祖父の遺産を手に入れたんだ。それを目当てに、俺の養育を引き受けた」
   優しい言葉をかけてもらったことはなかったと、ザカ先輩は言った。聞けば聞くほど、悲惨な状況だった。
「幼い頃は常に二人の顔色を窺っていた。機嫌が悪い時は容赦無く殴られたから、そういう時は一人部屋に閉じこもっていた。旅行に行ったまま何日も戻って来なくて、食べる物も無くなって困り果てたこともあった。ジュニアスクールに入ってから、一度家庭内視察が入ったが、視察員に俺が如何に訴えても窮状を解ってもらえなかった。また俺がそう告げたことが叔父夫婦に伝わって、大変な目に遭ったよ。顔を殴れば周囲に気付かれるが、腹や背中は見えないだろう?」
   ザカ先輩は平然とそう言うが、その意味するところに驚いて、俺は瞬きを忘れていた。
「そんな家だったから、俺は士官学校の幼年コースを受験したんだ。結果は惨敗だったけどね。自分なりに勉強したつもりでも、試験問題はさっぱり解らなかった。それが口惜しくて、高校に入ってからは猛勉強した。家に帰っても嫌な思いをするだけだから、図書館で勉強していたよ。その頃から家には寝るためだけに帰った」
「……大変でしたね」
「まあな。だがその頃の辛さを思えば、士官学校は俺にとってはそれほど辛いと思えなくて……。むしろ、入学した当初は天国だったよ。尤もあの叔父に育てられたから、体力と打たれ強さが備わったのだろうけどね。……こんなことを人に話したのは初めてだ」
   ザカ先輩はそう言って笑った。だが、俺には想像もつかないぐらい辛い日々を送ってきたのだろうことは解る。
「ジャンはきっと良い家庭で育ったのだろうな。何となくそんな印象を受ける」
「父は職人気質で頑固でしたが、母は底無しに明るい人です。父とはよく喧嘩しました。……俺は元々、士官学校を志望していた訳ではないんです。本当は帝国大学の文学部を志望していて……」
   士官学校に入学するまでの経緯について語ると、ザカ先輩は驚いた様子で、優秀だったのだな、と言った。
「そんなことは無いですよ。近くのリヨン大学には文学部が無くて、文学部のある国公立大学を調べたら帝国大学しかなくて、其処を受験したんです。家が工場を経営していましたが、経営が傾いていたので私立大学は志望出来ませんし、かといって父が勧める工学部に行く気は無くて、受験の一年間は死にものぐるいで勉強したんです。高校時代の成績は中程でしたから……」
「道理で文学書をよく借りていた筈だ。本当は其方に興味があったのだな」
話をするうちにリヨンの駅へと到着した。此処から家まではさらにバスに三十分乗らなくてはならない。帝都とは違う街の雰囲気を、ザカ先輩は興味深そうに見ていた。バス停まで到着し、其処から三分ほど歩くと家が見えてくる。
「……隣の工場がもしかして経営していたという工場なのか?」
「ええ。廃業したのでもう中身は無いのですが、まだ取り壊してなくて」
「結構大きな工場じゃないか」
「機械が大きかったので面積が広いだけですよ。最後に残った従業員は祖父の代から働いていた二人だけになりましたし……」
   ジャン、と家から声が聞こえて来た。玄関の扉を開けて、母が此方に歩み寄って来る。
「ただいま、母さん。此方が電話で話した……」
「ノーマン・ザカ君ね。リヨンまで長旅だったでしょう」
   ザカ先輩は少し緊張した様子で母に挨拶した。母はいつも通り明るく、ザカ先輩を迎え入れてくれた。
   父が亡くなってから元気が無かったから少し心配していたが、母はすっかり立ち直ったようだった。そのことにも安堵した。
「荷物が重いでしょう。早く入りなさいな」
   母は手製のケーキを焼いて待っていてくれた。リビングで母と語り合ったあと、ザカ先輩を部屋へと案内する。俺の隣の部屋は客間で、友人が泊まりに来る時はいつも其処を使っていた。
「ありがとう、ジャン」
「何か足りないものがあったら言って下さい」


   ザカ先輩はよく気の利く人だった。ベッドは常に綺麗に整えられているし、朝食の準備も母を手伝った。母曰く、気付いたことはすぐに取りかかり、おまけに手際が良いらしい。
「ジャンも見習いなさいね。荷物を送ってきたと思ったら、本と洗濯物の山だもの」
「あれは洗濯済みだよ……」
「きちんと畳んでいないから皺になっていたじゃない。洗い直しておいたわ」
   母と俺のやり取りを聞いて、ザカ先輩は笑っていた。母はふと気付いた様子でザカ先輩に問い掛けた。
「御実家はどちらなの?」
「帝都です。士官学校から地下鉄で三十分ぐらいのところです」
「あら。それなら近くて良いわね。親御さんも安心でしょう」
   母にザカ先輩の身上のことは何も話していなかった。悪気無く聞いていることではあったが、何だか悪い気がして話を逸らそうとすると――。
「両親は子供の頃に亡くなって、叔父夫婦に育てられました。……だから実家には帰っていません」
   母は驚きながらも、ごめんなさい――と謝った。それに対し、ザカ先輩は首を横に振って事実ですからと返す。
「大変だったわね。……じゃあもしかして休暇の時もずっと学校に?」
「はい。入学して以来、連絡も取っていないので……」
   ザカ先輩はこの時、詳しくは話さなかったが、母は全てを察したようだった。
「だったらうちにいらっしゃい。今回も二日間だけって聞いてるけど、学校に戻るだけなのでしょう?」
「あ……。はい。ですが……」
「休暇終わるまで此処に居なさいな。賑やかな方が楽しいでしょう? 遠慮なんて無用よ」
   母の押しの強さによって、ザカ先輩は休暇が明けるまで此処で過ごすことになった。何となくこうなるだろうと予感していたが、ザカ先輩はとても驚いたようだった。


[2012.1.7]