第19章 飛翔の行方



   木々の隙間から風が流れ込む。
「先生、これは何ていう意味なの?」
   小さな手が単語を指差す。
「辞書は引いたか?」
「載ってなかった……」
   口を尖らせながらも、小さな手が大きな辞書のページを捲っていく。
「ページを捲りすぎだ。1ページ戻ってごらん」
「あ! あった!」
   子供の元気な声と共に、また風が流れていく。夏も盛りではあったが、この外のテーブルの周囲に木々を植え、天蓋のように蔦を這わせてあるからか、こうして外で過ごしていても心地良さを感じる。
「では今日はこの辺で終わりにしよう。先週も言ったように、明日から二週間お休みする。その間にこの本を読んでおきなさい」
   はあい、と元気よく応えて本とノートを鞄に仕舞う。それを終えると、僕も明後日、お出掛けするんだ――と眼を輝かせて言った。
「それは良いな。ご家族と出掛けるのか?」
「うん。皆で海に行くの。何処だったかな……ええと、あ、ナポリ!」
「ナポリも良い所だ。たっぷり楽しんでおいで」
「うん! お土産買ってくるね!」
   リュックは元気よく手を振って帰っていく。
   リュックにロビン、ワレリーにヨルク、ニーナにレーズィ。これで今教えている六人の子供達全員に二週間の休みを連絡した。あとは此処の戸締まりだけか――。

「リュックったらまた塀を跳び越えて帰っていきましたよ。危ないから止めるように何度も言っているのに」
   ミクラス夫人は呆れた口調で言いながら、私の側に歩み寄る。
「元気の良い証拠だ」
「本当に。リュックはハインリヒ様に似てらっしゃいますよ。何か危ないことをしでかしたくて仕方無いのですから」
   ミクラス夫人の言葉に確かに似ているな――と苦笑する。ロイも子供の頃はよく悪戯をして、叱られていた。階段を二段飛ばしで駆け下りてみたり、柱を滑り降りてみたり――。
「さあ、ミクラス夫人。私達も邸に戻ろう」
   テーブルの上を片付けて、ミクラス夫人を促す。



   此処は、ロートリンゲン家の邸から車で三十分程の山奥にある。
   この場所に一軒家を建てて、子供達に勉強を教えていた。数えるともう三年になる。新議会を設置してから宰相を退任し、此処での生活を始めた。当初はマスコミが押しかけてきたが、今ではそうしたことも無く、偶に取材の申し入れがあるぐらいで、静かな生活を送っていた。
「……っと」
   椅子から立ち上がった途端、軽い眩暈に見舞われて、テーブルに手を付く。フェルディナント様、とミクラス夫人が身体をすぐに支えてくれた。
「大丈夫だ」
「このように暑い時期ですし、二週間とはいわず、もう少しお休みになったら如何です?」
「夏の眩暈はいつものことだ。心配する程でもないよ」
   いつものことだ――。
   だが年々、夏の暑さに弱くなっている気がする。おそらくは加齢のためだろう。だが空調の整った部屋のなかで過ごすよりも、少し暑くともこうして木々の下で過ごす方が心地良い。



   この三年で、この国は大きく変わった。
   初の選挙が実施され、その結果、100名の議員が誕生した。100名の議員のなかに、アランも名を連ねていた。アランは都市部を中心に票を集め、得票数は候補者中第3位という高い支持を得て、議員となった。選挙後に私の許にやって来て、宣言した通りだろう――と茶目っ気を出しながら、今後の目標を語っていった。アランは今でも、偶に私の許を訪ねに来る。
   その直後、選ばれた議員達のなかから、議員間の投票と国民投票によって、首相が選出された。フェリックス・キルヒアイゼンという、元々内務省管轄下時代からの議会議員であり、市民運動家としても名を馳せていた男がこの国初の首相となった。彼はロートリンゲン家が嘗て支援していた運動家で、当選後、彼は今後の抱負を私に話しに来た。今後、そういう話はメディアを通じて行うようにと助言したら、彼はそうですね――と笑って応えた。彼の許で、様々な政策が執り行われた。

   まず、新首相の誕生後、新ローマ帝国というこれまでの国名が改められ、この国は西欧連邦となった。宰相室は解散し、内務省のあり方も変化した。内務省以外の長官や次官の多数は留任した。
   そして、新たな内務省の長官には、オスヴァルトが任命された。また、これまで本部が一手に担っていたことも地方に分掌させて、地方発展への道を開いた。対外関係も良好で、現在は貿易も活発になりつつある。


   旧領主家については、私が宰相在職中に解体を行った。私有している領地の国への返上、租税上の優遇処置の廃止、公的機関や団体への多額の寄附停止――それらを実行するだけでも随分な資産が国に戻って来ることとなった。
   ロートリンゲン家では、領地として所有していた本邸の土地を買い上げることで対応した。大抵の旧領主家も同様に、屋敷地を買い上げ、残りの領地を返上した。
   ロートリンゲン家の領地は、本邸以外は全て一旦返上し、購入したものであったため、さほど影響は無かった。多額の寄附停止は旧領主家による公的機関・団体の私物化を防ぐことが目的であって、ロートリンゲン家による文化・教育団体への多額の寄附も停止となった。そうした団体は国からこれまで以上の補助金を受けることになり、旧領主家が返上した財産がまずはそれらに当てられた。
   ロートリンゲン家のようにひとつの企業として活動していた旧領主家にとっては、旧領主解体による影響というのはそれほどなかったが、特権を振り翳して利益を得てきた家々は、租税上での優遇処置の廃止によって、没落した家も少なくなかった。そのため、旧領主家からの反発も強く、在職中に命を狙われたことも少なくない。
   だが――。
   この国は着実に変化していた。未来に向けて、今度こそ本当に一人一人の国民のための国家作りのために。


「フェルディナント様。準備が整いました」
「では帰ろうか」
   ミクラス夫人を促して、車へと乗り込む。目的地を邸に設定して、自動運転で車を走らせる。


[2010.8.20]