船旅は私が予想していた以上に快適なものだった。揺れることもないから、酔うこともない。それに気圧の変化が無い分、飛行機よりも楽に感じた。
   船室は天井は低いが、ホテルのスイートルームを思わせる一室だった。ホテルより少し狭いだろうか。それでもベッドはキングサイズだから窮屈でもなかった。

   航海初日の夜は、船長主催のパーティが開かれた。船長が私とロイの許に挨拶に来たが、騒ぎ立てないようそっと伝え、大仰なことは控えて貰った。船のなかにはプールやらカジノやらスポーツジムやら、様々な施設が備えられてある。
   デッキに出て、風に当たるのが心地良く、私は大抵そうして過ごした。ロイは時折、ジムに行き、身体を動かしてくるが、それ以外は私と同じようにデッキに出て海風を浴びていた。ジンだのスコッチだのアルコールを傍らに置いて。

「お前は船にはよく乗るだろうから退屈だろう」
   ふとそんなことを問い掛けてみると、ロイは私を見て言った。
「こんな暢気に乗ることは無いな。戦艦に乗っている間は常に艦隊の位置を把握しておかないといけないし、状況も把握しておかなければならない。正直、海を見る余裕など無いよ。指揮官一人のミスで乗員の命を失う危険性もあるだろう」
「……そうだな。お前も戦艦しか乗ったことが無かったな」
「ビザンツ王国から連邦に行った時は客船だったぞ。……ああ、あとプレジャーボートになら乗ったことがある。ほら、お前と母上は乗らなかったが、父上と俺とでボートに乗って……」
   ロイは身を乗り出して話し始める。今の今まで忘れていたが、プレジャーボートで一騒動があった。私はその時、風邪を引いてしまって一緒に行くことは出来なかったが、確かそのプレジャーボートは……。
「岩礁にぶつかって転覆した……のだったな」
「憶えているか? あれは散々だった。海に投げ出されて、陸まで泳いだのだからな」

   暑い夏の日のことだった。マルセイユでの休暇中に、近くの無人島に行ってみたいというロイの希望もあって、父はプレジャーボートを用意し、家族で出掛けることになっていた。
   しかし当日、私が体調を崩して出立を断念せざるを得なくなり、母と私だけはマルセイユの別荘に残った。父とロイはプレジャーボードで無人島に向かうはずだったが――。

   途中で座礁して、ボートが大破してしまった。父とロイが衝撃で海に投げ出されたというのだから、どれだけの事故だったかは想像に余りあるが、其処から陸までの距離を二人で泳いで帰ってきたのだから驚かされる。
   翌日帰宅予定だったにもかかわらず、夜遅くに突然帰宅したものだから、母も私も驚いた。おまけにその時購入したプレジャーボートは、たった一度で大破してしまった。

「大変だったのだぞ。あの時は。泳いでも泳いでも陸は見えないし、疲れたといえば父上にだらしないと怒られるし……。後から考えても軍の訓練より過酷だった。ルディや母上が行かなくて正解だったよ」
「20キロ近く泳いだのではなかったか?」
   翌日、父が海上保安局に連絡をして、大破した船を取りに行ったところ、確か陸から20キロのところに船の残骸があったと言っていた。それを聞いて、母も私も身の毛がよだつ思いがした。
「船といったらその記憶が強烈に残っている」
「私は今回が初めての船だから……、色々と新鮮だ」
「揺れないから楽だろう?」
「ああ。快適だ」
   海からの風も心地良い。体調を崩すどころか、癒してくれるような――そんな気になる。


   食事は船内にあるレストランで摂った。船上であるにも関わらずメニューも豊富だった。二日目の夕食も同じようにレストランで食事を摂っていると、テーブルに寄って来る人物が居た。
   見知った顔ではなかった。誰だろう――と思っていたところへ、その人物が、ロートリンゲン様でいらっしゃいますね――と言った。
「失礼だが、貴殿は……?」
「ドマルタン貿易会社の会長を務めております、ダニエル・ヴァナー・ドマルタンと申します。宰相閣下ならびに大将閣下に初めてお眼にかかります」
   ドマルタン貿易会社――。
   フォン・シェリング家の出資先か。愛想良く近付いて来たことから察して、ロートリンゲン家からの出資を依頼するつもりなのだろう。
「両閣下の御功績については、新聞やニュースで眼にしております」
   ダニエル・ヴァナー・ドマルタンは世辞を並べ始める。ロイも私も食事の手を止め、黙って聞いていた。やがて話はドマルタン貿易会社のことへと移っていく。経営が厳しいということを、肩を竦めながら語り出した時、ついにロイが口を開いた。
「フォン・シェリング家からの支援を失ったことで焦る気持ちは解りますが、我が家がこれ以上出資するとなると、貿易会社を独占してしまうことになります。申し訳無いが、出資は出来ません」
「その辺りをどうにか……」
   ロイはちらりと私を見遣る。ロイの言っている通りで、ロートリンゲン家からこれ以上の出資は難しい。
「旧領主家からの出資はこの先、殆ど見込めないものと考えて動いた方が宜しいでしょう」
「宰相閣下……?」
「皇帝が不在となった今、旧領主家も今迄のような力を持てなくなるということです。これまでの帝国の仕組みががらりと変わるでしょう」
「……どうお頼みしても、出資は望めないと仰いますか……?」
   ダニエル・ヴァナー・ドマルタンは落胆の色を隠さずそう言った。私もロイも黙っていると、彼は失礼しました――と言って、もう一度ロイと私を見遣る。
「お考えがお変わりになりましたら、是非御一報下さい。私達も生き残りをかけて必死なのです。どうか、お考え直し下さいますよう……」
   彼が去っていくのを見届けて、ロイはワインを口に運んだ。
「やれやれ……。料理が冷めてしまったな」
「最後に言っていたように必死なのだろう」
「この客船に乗り込めるだけの利益が出ているのだろうにな。しかも彼のポケットからちらと見えたが、俺達と同じクラスの客室だ。ああは言っていたものの、半年や一年で潰れる会社でもあるまい」
「まあしかし……、こういう場所を狙って、出資先を探しているのかもしれんぞ」
「だろうな。俺もそう思う」
   食事を済ませてから部屋に戻る。陽の暮れた海は昼とはまた違う雰囲気を醸し出す。空の星が煌めき、月が海を照らし出しているような――。



   航海三日目にして船が到着したのは、世界で最も東に位置する都市であり、連邦の第二都市でもある東京だった。今日はこれから車で、連邦の首都北京まで移動する。入国手続きを済ませると、ロイは入国管理局の入口で待つように告げ、車を取りに行った。既に手配してあるらしい。
   ロイを待っている間、ゆっくりと辺りを見渡していた。帝国と何もかもが違う。空気、それに肌の色、髪の色――、当然のことで解りきっていたことでもあるのに、こうして実際に眼にするとそのことに驚いてしまう。
   程なくして、私の前に一台の車が停まった。ロイが其処から降りて来て、トランクに荷物を詰め込む。助手席に乗り込むと、ロイは早速発進した。


[2010.7.19]