ハインツ家とロートリンゲン家の管財人を立てて、二度にわたって話し合いを行った。その結果、ハインツ家の財産を管理するために財団を設立し、その管理をロートリンゲン家が行うこととなった。
   ラードルフ小父が酷く焦っていたこともあって、話は年内に纏まった。この年になったら、先が短いということを否応にも感じてしまう――と、小父にしては珍しく弱気なことを言っていた。

   全ての契約を交わし終え、年が明け数日が経ったこの日の朝、ロイは帝国軍の軍服を纏っていた。その姿を見るのは、本当に久しぶりのことだった。
「では行ってくる」
   ロイは嘗てのように徒歩で本部へと向かう。マスコミがまだこの邸を張り込んでいたが、多少は仕方無いと開き直った様子だった。
   今日は海軍部でまず辞令交付があるらしい。その後、フェイ次官と今後のことについて打ち合わせをすると言っていた。

『俺はどうしても、お前に宰相として復職してほしいと思っている』

   一人になると、ロイの言葉が思い返される。
   だがどうしても私はロイのように踏み切れない。皇帝に仕えていた宰相が、再び権力を有することで、この国が後退してしまうのではないかと思えてならない。おまけに私は旧領主家の人間だ。旧領主家の人間が権力を持つことになると、また君主制と同じことが繰り返されるのかと国内からも諸外国からも思われかねない。
   だが一方で、この国の内政全般が滞っていることも事実だ。副宰相であるオスヴァルトの権限は限られている。オスヴァルトには決定権が無い。そして議会も何も決められない。

「フェルディナント様。そろそろ往診のお時間です」
   ミクラス夫人の声に傍と顔を上げる。時計の針は午前10時を示していた。ロイが出掛けてから三時間、私は茫と考え事をしていたのだろう。
「解った」
「……どうかなさったのですか?」
「いや。考えごとをしていただけだ」
   立ち上がり、ベッドへと移動する。ベルトを解いてからベッドに腰掛けると、ミクラス夫人は言った。
「あまりお悩みになられませんよう。フェルディナント様、少し息抜きをなさっては如何ですか?」
「息抜き? 今でも充分に休んでいるが……」
「このところ御邸に閉じこもりがちです。散歩をお勧めするには外は寒いので、美術館か博物館にでも行ってらしたら如何ですか?」
   勿論、お身体の具合が宜しければですが――と、ミクラス夫人は穏やかな笑顔を浮かべる。去年までは休日を見つけては、そうしたところに足を運んでいた。確かにこのところ殆ど外出していない。
「そうだな……。気晴らしに出掛けるのも良さそうだ」
   博物館にでも行ってみようか――と考えたところ、トーレス医師がやって来た。

   いつも通りの診察を受けた後、3月に旅行を考えていることを話してみた。トーレス医師はロイから既にその話を聞いていたようだった。
「新トルコ共和国とアジア連邦、二ヶ国を周遊すると伺っています。旅程に無理の無いこと、そして具合が悪くなったらすぐに近隣の病院でお休み頂くこと、それをお守り頂けるなら……」
   トーレス医師から許可が下りた。3月の旅行はこれでほぼ確定したと言って良いだろう。
   診察を終えて、暫く休み、昼食を摂ってから外出をすることにした。

   ケスラーに車を出してもらい、博物館へと向かう。予想はしていたことだが、マスコミが車の後に付いてきた。
「フェルディナント様。マスコミを蒔きましょうか?」
「いや……。見られて困るものでもないから構わないよ。ケスラー、少し街の様子を見たいから、大通りを走ってもらえるか?」
「承知致しました」
   ケスラーは車を方向転換させて大通りへと進む。街はさほど活況を呈している訳ではないが、私が考えていたほど閑散としている訳でもなかった。暴動が起きる気配も無い。
   ケスラーは大通りを真っ直ぐ走って、それから博物館のある通りへと入っていった。正面入口で下ろしてもらう。中に入り、背後を見遣ると、マスコミがまだ後を付いてきていた。
「迷惑をかけてしまうかもしれないが、入館しても構わないか?」
   案内所でそう告げると、どうぞ、と案内係の女性が快く応じてくれた。入館料を支払い、奥へと進む。常設展しか展示されていなかったためか、人も斑だった。
   私の後に10人程の人が立て続けに入館していたから、おそらくはマスコミなのだろう。ちらちらと見られていたが、彼等も館内ということで声をかけてくることは無かった。

   一時間ほどじっくりと見て回ってから、ケスラーに連絡を入れてまた正面まで来て貰う。ロビーで待っている間、私の後をついてきたマスコミ関係者11人が一斉に駆け寄ってきて、閣下、と呼び掛けた。
「お身体はもう大丈夫なのですか?」
   人懐こい表情で問う。此方の警戒を解くためなのだろう。
「ええ。この通り、回復しています。皆様方にもご迷惑とご心配をおかけしました」
   当たり障りの無い言葉で返す。若い男が手を挙げて、所属する新聞社の名を告げ、2、3の質問をさせて下さい――と言う。
「私に答えられる範囲のことであれば」
「現政府と連合国側から復職を依頼されていると聞いています。閣下御自身は復職についてどうお考えですか?」
   復職について質問されるとは思っていたが――。
   口を開きかけた時、別の方向からも質問の声が挙がった。

「裁判後、皇帝への量刑が軽すぎるとの国民の声が挙がっていますが、閣下はどうお考えですか?」
「閣下。宰相に復帰なさったらまず何をなさるつもりか教えて下さい」
「今後の帝国のあり方についてどういうお考えをお持ちか、お聞かせ下さい」

   質問が次々と投げかけられる。
   答えようにもどれから答えて良いものか――。
   ケスラーの車が正面入口前に到着する。此方の様子に気付いて、車から出て来ようとしたのを、片手を挙げて制する。
「裁判に関しては、全て国際裁判の決定に従います。また私の復職に関しては、私はまだ停職期間中の身、回答は遠慮させていただきます」
   失礼――と言って、車へと向かう。閣下、と何度か呼び掛けられたが、会釈をしてそれ以上の返答は避けた。こうしたマスコミに対する私の発言が、社会に及ぼす影響は意外に大きい。今はまだ何も告げない方が良い。


   帝国博物館から邸に帰宅すると、門前でマスコミが待ち構えていた。フラッシュが何度も瞬く。ケスラーは巧みにマスコミを避けて運転し、玄関入口に車を横付けしてくれた。ありがとう――と礼を述べてから、車を降りる。
「お帰りなさいませ。フェルディナント様」
   扉が開き、フリッツが出迎えてくれる。マスコミにも困ったものですね――と門の方を見遣って言う。
「ある程度は仕方が無い。塀を乗り越えようとしなければ構わないよ。警報機が作動してしまうからな」
   マスコミにずっと後をつけられはしたものの、久々の外出は確かに息抜きになった。街の様子も少しだけだが見ることが出来た。

   時計を見ると、もう午後5時になりかけていた。今日、ロイは執務が終わってから、ヴァロワ卿の許に復職の報告に行くと言っていたから、帰宅も少し遅くなるだろう。
   マスコミの質問の声がまだ耳に残っていた。復職、そして復職を前提にした質問の数々――。
   思い出すと溜息が出て来るが、邸に閉じこもっているよりは気が晴れたか――。


[2010.7.10]