時計の針が午後二時を指し示す。そろそろラードルフ小父がやって来る頃だった。
   昨日、ロイは日付が変わる少し前に帰宅した。視察先では次から次に問題が生じ、また取締役達が先行き不安を訴え、なかなか辞することが出来なかったらしい。如何にロートリンゲン家が安定しているとはいえ、この情勢では不安もかき立てられるのだろう。
「フェルディナント様、ハインリヒ様。ラードルフ様がいらっしゃいました」
   ロイと話をしていたところへ、フリッツがラードルフ小父の来訪を告げた。


   ラードルフ小父は、一昨日まで夫人と共に新トルコ共和国を旅行していたらしい。共和国の雰囲気を醸し出している陶器と酒を土産に呉れた。相変わらず元気な方だった。
「共和国は活気があった。帝国が閉塞感に包まれているから余計にそう感じるのかもしれんが……」
「小父上、実は私達も3月に共和国に行くつもりです」
   ラードルフ小父は眼を見張って、珍しいな――と言った。そしてすぐに、身体は大丈夫か、と私に向けて心配げに尋ねて来る。
「ええ。このところ体調は良いですし……」
「今年は例年にない寒波が押し寄せている。3月といえども、気候には注意しなくてはならんぞ」
「ご心配ありがとうございます。ロイと一緒ですから大丈夫ですよ」
「それなら安心だ……。いや、二人だと突っ走りそうだな」
   ラードルフ小父はそう言ってから、冗談だと笑った。
「ところで……」
   笑いを収めてから、ラードルフ小父は切り出す。
「今日はハインツ家最後の当主として頼みに来たんだ」

   ハインツ家最後の当主――?
   その意味を考えていると、ラードルフ小父はゆっくりと話し始めた。
「私には後継者が居ない。だから私が死んだら、ハインツの血筋は途絶える。フェルディナントも養子には来てくれなかったからな」
「……小父上。そのことは……」
「解っている。私も嫌がる者を無理にとは言わない。君の父上にも何度も断られたのだからな」
   ハインツ家へ養子に――という話は、これまでに何度か持ち上がってきたことだった。父の代の時も、ラードルフ小父は父にこの家の後継者がハインリヒならば、私をハインツ家の養子として迎えさせてくれないかと何度も頼んだらしい。父にはその気が全く無かったようで、いつも断られてきたのだと、ラードルフ小父は常々言っていた。
『フェルディナント。ハインツという名だけを継承してくれれば良い。後の財産に関しても私と妻の死後は君の好きにして良い』
   最後に、私に養子の話を持ちかけたのが去年のことだっただろうか。まだロイが追放となる前のことだった。

「いつかは子供が出来ると考え暢気に構えていたが、ついに子供には恵まれなかった。よく知った筋から養子に迎え入れたいと思い、君の父上に頼んだが、君を手放そうとしない。養子を迎え入れようと色々当たってはみたが、私としてはやはり君にハインツ家の後継者となってほしかった。……しかしそうしたところへ、今度は皇女との結婚話が出て来た」
   ラードルフ小父は苦笑し、私の望みはその時に絶たれたよ――と言った。
「小父上……」
「今でも継いでくれると言ってくれたら嬉しいが、だがこの情勢だ。今後、旧領主家は勢力を弱め、いずれ絶えていく。これはもう時代の流れだろう。この国が今後発展していくためなら、私もそれで構わないと思う」
   だから――。
   だから、最後の当主と言ったのか。養子を迎えることを諦めたという意味を込めて。

「だが、我が家が支援する傘下企業や団体が残っている。もしこのまま私の代で絶えてしまったら、企業にまで影響が及ぶ。今のフォン・シェリング家がそうであるようにな」
   この国は旧領主家が経済を支えているから、君主制を廃するにはまず経済システムも変えなくてはならないことになる。今の臨時政府が其処までの梃子入れが出来ないから、社会に混乱が生じている。容易に君主制を廃することの出来ない事情がそれだった。
「フェルディナント、ハインリヒ。私が亡くなった後のハインツ家をロートリンゲン家に吸収してもらえないだろうか」
   吸収――?

「え……? どういうことですか……?」
「言葉通りの意味だ。ハインツ家の財産をロートリンゲン家に吸収してほしい。そのうえで傘下企業や団体の維持を頼みたい」
   驚いて言葉が続かなかった。ハインツ家とロートリンゲン家の家産を合算すると現在の国家予算を凌ぐことになるではないか――。それは権力の集中も同時に意味することになるではないか――。
「小父上。待って下さい。それではロートリンゲン家に経済力が一極集中して……」
「整理出来るものは此方で整理する。別邸は既に人手に渡した。妻も了承済みだ」
「小母上がいらっしゃるではないですか。其方の親族は……」
   ロイがそう指摘すると、小父は肩を竦めて言った。
「私も妻も親類は絶えている。そして、妻自身が莫大な資産を運用することは出来ないと言っている。自分が散財するよりはロートリンゲン家に吸収され、有用に使ってもらった方が良いと……。勿論、妻には私の死後も不自由は無いように整えてある。だがそれ以外の資産は、君達に委ねたい」
   ラードルフ小父は具体的な資産のことに関しては、日を改めてハインツ家の管財人とロートリンゲン家の管財人のパトリックを立ち合わせたうえで話を詰めようと言って、この日は去っていった。



「……小父上の様子から察して、此方に拒否権が無いような印象を受けたな」
   ラードルフ小父が帰ってからも暫く、リビングルームでロイと話し合うこととなった。ロートリンゲン家とハインツ家の財産を結集させるとなると、如何に夫人への遺産は別にあるとはいえ、企業利益だけで途方も無い額となる。容易には受け入れがたい話なのに、ロイの言う通り、ラードルフ小父は此方に有無を言わせなかった。
「他に養子を迎え入れる手立てが無いのか、もう一度掛け合うつもりだ」
「……それはきっと無駄だろう、ルディ」
   ロイはあっさりと否定する。見つめ返すと、子供の頃からだぞ――とロイは言った。
「俺達が子供の頃から、小父上はお前を養子に欲しがっていた。小父上はずっとお前だけを目当てにしていたんだ。だから他から養子を迎えることも無かった」
「だが、ずっと断り続けて来たことだ」
「それでもお前以外の養子は考えられなかったのだろう。お前がアクィナス刑務所に収監された時も、すぐに駆けつけてくれたらしいからな。問題が問題だから、他家に迷惑がかかってはならないとフリッツが助力の申し出を断ったらしいが……」
   その話は知っている。
   フリッツが教えてくれた。そしてそのことで礼を告げた時、ラードルフ小父は笑いながら、私には何も出来なかったが、と前置いて、とんでもないことを教えてくれた。
『実は皇帝の許に直訴に行ったが、追い返された。情けない限りだよ』
   小父はこれまでにも何度となく、私のために尽力してくれたことはよく解っている。
   その分、ラードルフ小父の力になりたいと思っているが――。

「……フォン・シェリング家が力を失い、ハインツ家がロートリンゲン家に吸収されたとなれば、他の旧領主家との経済力の差は明らかとなる。……ロートリンゲン家が全てを動かしているように見えてしまう」
   暫くしてパトリックが入室する。事の次第を話すと、流石にパトリックも言葉が出ない様子で立ち尽くしていた。


[2010.7.9]