ロイは今日、軍務省に赴いた。連邦の臨時本部に行き、フェイ次官とシヅキ長官の許可を得て、連邦軍を正式に除隊した。その後で帝国軍のヘルダーリン卿の許に行って、復職の意と国際会議常備軍司令官の指名を受ける旨を伝えた。ヘルダーリン卿はロイの手を取って喜んだらしい。
「ヘルダーリン卿が長官への復帰も求めてきたが、それは辞退したんだ。話し合った結果、軍務局司令官として復帰することになった」
「長官となる前と同じ職だな。確かにその方が身動きが取りやすい……」
「あともう一つ我儘をきいてもらった」
「我儘?」
   何だろうと問い返すと、お前と約束したことだ――とロイは微笑して言った。
「旅行に行く、と。3月に2週間の休暇を貰ってきた。もし認めて貰えないようなら、4月からの復職をと考えていたが……」
   3月の中旬辺りと考えている――とロイは旅程を話し出した。
   ロイは確りと計画していたのか――。
「無理をせずとも良いのだぞ……?」
「約束は約束だ。ルディも順調に回復しているしな」
「ロイ……」
「旅程は俺が大方決めておくし、トーレス医師にも話をしておく。お前は回復に努めることだ」
「ありがとう……。ロイ」
   ロイは首を横に振って、先程ミクラス夫人が持って来てくれた珈琲を持ち上げた。一口それを飲んで、カップを置き、ルディ、と呼び掛ける。
「もう一度だけ言う。勿論、お前も悩んでいることだろうし、お前が固辞する気持も解っているつもりだ。だが俺はどうしても、お前に宰相として復職してほしいと思っている」
   このロイの言葉は他の誰の言葉よりも重く感じられた。



   そして、もう一度だけ――というロイの言葉通り、ロイは翌日からは復職の話を一切口にしなかった。
   復職――。
   レオンやフェイ次官が説得に来た日から、悩まない日は無かった。フェイ次官の言葉には一理あった。それにその後もレオンから電話が入っていた。元気かと此方のことを聞いてから、最後に復職を求めてくる。
『この情勢に終止符を打つにはどうしても君の力が必要だ。ルディ、頼むから考え直してくれ』
   私は――復職した方が良いのか。
   それは本当にこの国のためになるのだろうか。急いた民主化は反動を生じさせないだろうか。ただでさえこの国は建国以来、民主化の動きの無かった国で――。
   これまで民主運動は全て政府が弾圧してきた。アクィナス刑務所に収監されていた者達も民主運動の果てに過激な行動に及んだため、逮捕された者が多かった。しかし帝国国土と人口を考えれば、そうした人々はごくごく少数派ということになる。
   まだ国民の意識が薄い。自分達の手でこの国を動かそうという意識が、極少数の者にしか芽生えていない。議会と憲法を作り出すだけの力が生まれていない。国民の代表者でさえも――。

   机の上にある本を一冊取り上げる。惑星衝突前の古い書物だった。それには高度な民主制の法体系が書かれてあって、今の帝国がどれほど退行していたのかがよく解る。
   こうした民主制に関する書籍は概して惑星衝突前に書かれた古い物が多いが、帝国図書館や帝国大学で閲覧することは出来る。そうしたことに関して、帝国はこれまで制限を設けて来なかった。
   だが一方で、帝国の学校教育では民主制について教えない。高校でも帝国史の授業はあってもそれ以前の歴史については触れなかった。だから、君主制と対局の民主制に移行するという考えは生じてこない。いざ執政者が居なくなり、全ての機能が停止してしまうのも無理は無い。

   今のこの国が惑星衝突前と同じ体制を敷くのは、無理だろう。少なくとも10年は時間を要する。この国はそんな状態だ。
   私が宰相に復職することで、民主化への道筋を示すことは出来る。だがそれは、上から与えた民主化だ。上から指示されての民主化は、将来、社会に歪みが生じる結果となるのではないだろうか。

   まだ、私には明確な答えが出ない――。

   一つ息を吐いて本を閉じる。窓の外に視線を転じると、白いものがひらりと舞ったように見えた。
「雪か……」
   窓を開けテラスに出るとはらりと冷たい雪が手に触れた。邸の中に閉じこもっていたから解らなかったが、外は随分冷える。寒さを覚えて窓を閉め、椅子に腰掛けたところへ、フリッツがやって来た。
「フェルディナント様。ハインツ家のラードルフ様からお電話が入っております」
   ハインツ家――。
   この前、フォン・シェリング家の出資先企業について語り合ったところだった。このままでは倒産する企業が出て来る。経済が大きく揺れ動くだろうから、その前に対処した方が良いのではないか――と。それに絡む話だろうか。
「解った。書斎に行く」
   階段を下りて、書斎に向かい、受話器を取る。

   ハインツ家とは子供の頃から、親戚のような付き合いがあった。親しみを込めて、ラードルフ小父上と呼んでいた。父上と小父上は仲が良く、また夫人も母と仲が良かった。
   現当主のラードルフ・ハインツは退職するまでずっと財務省に勤めており、一時は財務大臣まで務めた。今年で75歳となるが壮健で、機知に富んだ話をする、面白い人物だった。
   それに私が収監されている間も、何かとロートリンゲン家のことを気に掛けて、力になってくれたようだった。

「フェルディナント。身体の調子はどうだ?」
   ラードルフ小父は私の身を案じて問う。調子は良い旨を告げると、ラードルフ小父は、最近は寒い日が続いているから気を付けるのだぞ――と言った。
「お気遣いありがとうございます。お陰様で予想以上に早く回復していますよ」
   それは良かった――と、ラードルフ小父の声が受話器から聞こえて来る。ところでフェルディナント、と小父は話を切り替えた。
「お前とハインリヒに話があるのだが、時間を作ってもらえないか」
「解りました。今日はロイは出掛けていて留守なのですが、明日の午後なら空いていますので……」
   ロイは今日はロートリンゲン家傘下の企業視察のため、朝から出掛けている。帰宅は遅くなるだろう。明後日は軍務省に手続きに出向くと言っていた。
「では明日の午後、其方に邪魔させてもらう」
「どうぞ。お待ちしております」
   おそらく出資関係の話だろう。フォン・シェリング家が後継者を失い、フォン・シェリング家の傘下企業が強大な支援者を失って右往左往しているという話も聞いている。既にロートリンゲン家に支援先を乗り換えた企業もあるが、それを躊躇する企業も多く、このままでは国内経済に影響を及ぼしてしまうのではないかとさえ囁かれている。
   ロートリンゲン家があまりに大きくなるのも問題だが――。
   経済ひとつを取ってみても、このままの状態が続くのは良くないことだというのは身にしみて解る。


[2010.7.8]